鈴蘭

「やっぱりまずいよな……」

 門の傍で安藤は蹲っていた。

 主人に対しての口の利き方に始まり春代に対しての思わせぶりな行為も何もかもが冷静になった頭にのしかかる。

 十吉の方は安藤よりも鈴蘭の方が気掛かりなため彼の言葉遣いや態度に対しては暇を出すほど気にしていないのだが、世間一般で言えばそれはあり得ないことだった。

 だから、当然安藤も腹を括らねばと歯を食いしばる。

 ここから追い出されたらどこへ行こうか。実家に帰る事はしたくない。どこかの金持ちの女房に取り入るか、けれどそれはしたくない。

 どう言うわけか春代の顔が浮かんでしまうから。

「もし、そこの方」

 安藤が唸りながら頭を抱えていると、凛とした声が聞こえてきた。誰なのかと顔をあげればそこには見惚れるほどに美しい女が立っていた。

 黒く艶やかな髪に長いまつ毛が縁取る切長の目。スッと通った鼻筋に薄い唇。息を呑む安藤に、女は微笑みかけた。

「こちらは宇佐美十吉の家で間違いないかしら?」

「はい……」

 その美女は十吉を訪ねてきたと言う。


 安藤は十吉の元へ案内しながらもその心は重かった。今朝の一件を思えばどんな顔で向かえば良いのかもわからない。後ろを歩く女は窓の外を眺めたり、安藤に質問をしたりととてもはしゃいでいる様子だった。

 体感にして一時間かけて安藤は十吉の部屋の扉の前までたどり着いた。

「ここにいるのね?」

 彼女はそう言うと安藤に心の準備もさせてくれないまま扉を叩いた。向こうからは「誰だ?」と十吉の声が聞こえてくる。

 すると隣の女は「私よ、十吉」と声を掛けると、安藤に「お世話様」と会釈して中に消えて行った。

「今のは誰?」

「うわ、いたんですか」

 壁から顔を出したのは八重香だった。安藤はまためんどくさいやつが現れたとため息を吐く。八重香はそんな態度は意に介さず、十吉の部屋の扉を凝視している。

 そんなに見ても透視なんてできやしないと安藤は八重香を連れて部屋の前から離れた。

「痛いわ!何をなさるの!」

「主人のことを詮索するような真似はやめろ」

「あら、主人の妻に手を出そうとした貴方に言われたくないわ」

 唇を尖らせる八重香に安藤は不快感を露わにする。

「……やっぱり噂の出どころはお前か」

 けれど八重香はにんまりと笑うと「あら、それはどうかしら」と言ってのけた。

「まあ確かに十吉様に話したのは私よ。でもね、あの時私の隣にもう一人いたのよ?」

 八重香の言葉に安藤は眉が動いた。そして嫌な予感がした。もう一人いた——その人物が“彼女”でなければ良いと安藤は唇を噛む。けれど、八重香は思った通りの名前を出す。

「春代って子、貴方のこと好きだったらしいわね。あんな姿見ちゃったらさぞかし夜は泣き腫らしたでしょうね……」

 全身から嫌な汗がぷつぷつと吹き出した。

 もし春代が見ていたのだとしたら、八重香の言う通りだとしたら、目元が腫れていた理由も頷ける。彼女がどんな思いで自分たちを見ていたのだろうか。そう思うたびに胸の真ん中がチリチリと痛んだ。

「なによ、貴方こそ気の多い男じゃない。つまんないの」

 八重香は無反応な安藤を置いて十吉の執務室へ向かった。

「安藤さん?」

 そこに通りかかったのは春代だった。けれどいつものような能天気さはなく、いつもならまっすぐ見つめる茶色の瞳を伏せて居心地悪そうにしている。

「あ、八重香を見なかった?探しているの……」

 いつも通りを装っているつもりなのかぎこちない春代の態度に安藤はただじっと春代を見つめた。嫌いなはずの彼女だが、改めて見てみるとそれほど嫌うべき存在なのだろうかと首をもたげる。

 日に当たると一層薄くなる茶色い瞳にぽってりとした唇。美人というほど美人ではないが笑うと愛嬌があって花がある。けれど、今の笑顔は見ていて苦しくなる。

「僕、自分で自分がよくわからない。でも、春代さんの事はなんとなく、傷つけたくない」

「……え?」

 戸惑う春代に安藤は微笑みかけた。

「友達になりませんか?僕たち」

 それは安藤にとっては前向きで、春代にとっては後ろ向きな提案。けれど、安藤の笑顔を見て春代は僅かな希望に縋ってみることにした。

「もう友達だと思っていたわ!」

 いつものように華やいだ笑顔に安藤はここ最近の胸の支えが取れた気がした。

「……って!そうじゃなくて、八重香を見なかった?あの子本当に目を離すとすぐに居なくなっちゃうのよ……」

「彼女なら旦那様の部屋に行ったよ。客人との関係が気になるらしい」

「客人?」

「ああ、とっても綺麗な人だったけど……旦那様の知り合いみたいなんだ」

 綺麗な人、と言った安藤に春代はどきりと心臓が跳ねた。けれどすぐに気持ちを切り替える。

「へぇ、どんな方なのかしら」

「さあ……そう言えば名乗らなかったなあ」

「え、それ大丈夫なの?」

「でも、旦那様は武術の心得があるんだし、相手はか弱い女性だからね」

 なんて事ないと言う安藤に少々頭が痛くなる春代だったが、すぐに八重香を連れ戻さなければと執務室へ向かった。

「……ふふっ」

 駆けていく春代の後ろ姿に安藤は自然と笑みを漏らす。やっぱり彼女には笑顔が一番だと後を追いかけるように歩き出した。

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