鈴蘭
「どうぞ」
「失礼します」
鈴蘭は部屋の扉を開くと中にイネを招く。イネは所在なさげに扉の前に立ち、鈴蘭が扉を閉めるのを静かに見つめた。鈴蘭はそんなイネに気がつくと椅子に座るよう促して、自身も向かいに腰を下ろす。
「なんだかこうしているのは久しぶりね」
以前は毎朝のようにこうして向かい合っていたけれど、鈴蘭が十吉と食事するようになってからはイネと話す時間はほとんど無くなっていた。だから、またお互いの顔を見て話せるこの時間が得られた事は鈴蘭にとって素直に嬉しいことであった。
「奥様、イネは一つだけ聞きたいことがあります」
「……なにかしら?」
イネは鈴蘭の言葉には反応せず、口を開いた。鈴蘭はイネの射抜くような声にどきりと心臓が跳ね、不安から視線が落ちる。
膝に置いた手を見つめながら鈴蘭はイネの言葉を待った。イネの口から出てくる言葉は自分を非難する言葉か、それとも安っぽい同情か。どちらも聞きたくないと言うのはわがままだろうかと、鈴蘭はきゅっと口を結んだ。
「奥様は、なぜイネにあの話をなさったのですか?」
「それは……」
イネから発せられた言葉は非難とも同情とも違うような、どちらも含んでいるような、曖昧なものだった。だからこそ鈴蘭も返す言葉が見つからず言葉を濁す。
——私はいったいなぜイネに話したのだろう?
改めて考えてみると、その答えが出せなかった。鈴蘭の中でイネなら話してもいいと思ったのは事実。けれどなぜそう思ったのか、明確にするのを自ずと避けていたように思う。
そうなると迷路に迷い込んだように自分の気持ちがわからなくなり鈴蘭は金魚のように口を開くのに声にならなかった。
「もし、」
そんな鈴蘭の様子に、イネは助け舟を出すように口を開く。
「もしも奥様がイネを嫌い、遠ざけようとなさったのなら、イネはこれ以上奥様の心の中に踏み込むことはいたしません」
感情の読めない抑揚の無い声。鈴蘭は反射的に顔を上げて違うと抗議しようとした。そんな鈴蘭の反応にイネは優しく微笑む。
「ですが、そんな奥様の話を聞いた上でそれでも離れないでいて欲しいと仰るのなら、イネはこれまで通り、奥様にお支えしたいと思っております」
「……でも、私最低な女よ?」
なんとか絞り出した言葉は何とも情けないものであった。イネは立ち上がると、鈴蘭の傍で膝を折り、震えて冷たくなった手を皺のよった柔らかい手で包み込む。
「あらまあこんなに冷えてしまって……」
そう呟きながら温かい手で優しく包む。
イネの行動に鈴蘭は胸が暖かくなるようで怖くなる。そして、何か予防線を張るように頭に浮かんだ言葉を声に出していく。
「私はお父様とお母様にとって望まれない子よ」
ぽたりと雫が落ちた。
「私はお姉様の婚約者と結婚した恥知らずな妹よ」
ぽたりぽたりとイネの手を濡らす。
「私はお姉様との別れの日に涙も流さぬような冷たい女よ」
イネはそっと左手を離して、鈴蘭の頬を流れる雫をそっと拭った。
「私は、私は誰からも、親からも弟からも、そして夫にも愛されぬような人間なのよ?」
たまらず鈴蘭は声を上げて泣きじゃくった。両手で顔を覆い、幼い子供のように涙を流す。そんな鈴蘭をイネは優しく抱きしめると、親が子にするように、優しくその背中を叩いてやった。
「鈴蘭様、イネは鈴蘭様が好きですよ。鈴蘭様の作る優しいお味のお味噌汁が好きです。女中達のためにと
事実、鈴蘭の働きかけによって女中達の働きやすさは向上した。十吉も気の利く旦那様であることに違いはなかったが、それでも気付けぬ世界がある。その行き届かぬところを鈴蘭は上手く補っていた。そのおかげか女中達の空気も以前より良くなっていた。
この半年、
「ご家族が鈴蘭様を愛してくれぬと言うのならそれ以上の愛をイネから贈らせてください。鈴蘭様ほど素敵な方が十吉様の妻となって下さったこと、イネは感謝しています」
その言葉に嘘は無い。鈴蘭が顔を上げると、イネは手巾を取り出して涙と鼻水を拭った。その優しさに、鈴蘭は嬉しさと罪悪感を持つ。今あるこの場所は本来自分のものでは無かったから。
「……イネは、イネはどうして私に優しくしてくれるの?どうして私を好きでいてくれるの?私は、私はこんなに醜いのに……私は、私は……」
一度言葉にすると余計な言葉まで出てしまう。けれど、鈴蘭は止められなかった。イネにはどうにも甘えてしまうのだ。それはまるで幼い頃に求めた母の愛のようで、石橋を叩くように慎重に、けれど探るように言葉にする。
そんな鈴蘭を見て、イネは口を開いた。
「イネには、娘がおりました。目に入れても痛くないほど愛らしい娘です」
鈴蘭の髪を撫でてどこか懐かしむように微笑を浮かべるイネ。そんなイネを見て、鈴蘭はくすぐったそうに頬を染めた。
「……そう、イネに似て優しいのでしょうね」
「ええ、そうですね、優しい子でした」
「?」
イネの言葉に違和感を覚えて鈴蘭はイネの目を見る。イネはそんな鈴蘭の視線から逃れるように目を伏せた。
「娘は今から十八年前に命を落としたんです」
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