鈴蘭
「君は?」
「私は鈴蘭さんの従姉妹の八重香と申します」
愛されて育った少女らしい華やいだ顔に虫唾が走り、表情が歪まぬようにと鈴蘭は左腕を掴む手に力を込めた。
姉もこんな気持ちで自分と十吉さんを見ていたのだろうかと、当時の自分と八重香を重ねて罪悪感が募った。本当に迷惑な妹だったと。
「申し訳ないけれど、僕は愛人とかそう言うのには興味無いんだ。今でも仕事の事で手一杯だからね」
穏やかだけれど有無を言わさない強さで彼女の申し出を断る十吉に、そこもあの頃のままだと鈴蘭は胸を撫で下ろした。八重香は眉を八の字にして「そんな」と大袈裟に落ち込んで見せると鈴蘭の方へ向き直って可愛げのない視線を向ける。
「でもね十吉さん、そうはいってもこのままというわけにはいかないでしょう?」
声を上げたのは鈴蘭の母親だった。どうやら鈴蘭にした話を十吉にも伝えることで思い通りにしたいらしい。いやらしく笑う下品な表情に、十吉は「何の話でしょう?」とはぐらかす。
「あら、後継のことですよ」
母の言葉に十吉さんは「ああ、それなら」と明るい表情を浮かべた。
「元よりこの事業は弟に継がせるつもりなのでご心配なく」
鈴蘭も聞いていなかった話だが、あくまで形式上の夫婦である自分には関係の無い話だと納得する。けれど、母親は受け入れ難かったのか「何ですって‼︎」と周りの目も憚らず奇声を上げた。
「もう一度よくお考え直しください。弟とは言え貴方の仕事を直系に継がせぬなど……十吉さんはまだお若いのでわからないかもしれませんがそれはあまり良い考えではありませんよ」
食い下がる母に十吉は尚も涼しげな笑みを浮かべて「元より父とはそういう契約ですから」と答えた。そのとき、不意に十吉と目が合い鈴蘭は瞬きをする。
少し申し訳なさそうな顔をする十吉に愛しさを募らせた。もしかして、自分の気持ちを慮っての表情なのか、と。
「この話は二人でよく話し合って決めた事です」
鈴蘭が声を上げると母親と八重香の蛇のような視線が鈴蘭に向けられ、その向こうで十吉は驚いたように目を丸くする。
「そういう事ですのでお二人に心配いただくような事はありませんよ」
二人の悔しそうな顔にうんざりしつつ、近くにいた使用人に「お客様が帰るわ」と告げて回収してもらった。まだ何かいいたげな二人だったが、これ以上話していてもきっと不快になるだけだと、とりつくしまもなく鈴蘭は二人を見送る。
二人を見送ってすぐ十吉が口を開く。
「君は良いのか?」
「何のことでしょう?」
十吉を見ると、彼は何やら浮かない顔をしていた。鈴蘭は意味がわからず聞き返すと、十吉は「後継のことだ」と言う。
「良いも何も、私達は本当の夫婦ではありません。子供だって望むつもりもない。むしろ、そうしていただけるならその方が私としては気が楽です」
——今のままの関係で良い。
それは鈴蘭の本心だった。
既に、あの地獄のような家から救い出してもらった上に、身に余るほどの贅沢を享受させてもらっている。その上子供まで、なんて。いくら何でも罰が当たるだろう。それに、菖蒲姉様だってそこまでは許さないだろう。
鈴蘭の中には何年経とうとも菖蒲という軸があり、それは十吉と接するたびに確固たるものになっていた。
「もし、今後十吉さんがまた菖蒲姉様のように愛せる女性が現れたら、その時もう一度話し合われたら良い事です」
「……そんなもの現れるはずがない」
「どうでしょう、人の心は移ろいやすいとも言いますよ。今は無理でも
「仮にできたとして、君がいるのだからやはり関係ない」
「そんなもの……!……十吉さんが望むなら、私はいつでも離れる覚悟はできています」
十吉は何も言えなかった。自分の態度が鈴蘭にこんなことを言わせてしまっているのだと、わかるから。けれど、このままで良いはずがない事も理解していた。
そんな十吉の胸の内など知らぬ鈴蘭は機嫌を損ねてしまったのかと不安になってそっと見上げる。けれど十吉はこちらは見ずに地面に視線を落としていた。
「そろそろ戻りましょう」
秋も深まり冷たくなった風が鈴蘭の頬を撫でた。鈴蘭はさっさと中に戻ろうと踵を返したが、十吉の下駄の音はついてこない。振り返っても何を思っているのか十吉はそこに立ったままで、鈴蘭は仕方なく十吉の袖を引くと、彼は弾かれたように鈴蘭の手を払った。
「……すまない、考え事を」
やってしまったと慌てるも、鈴蘭はまるで気にも留めないと言うように笑っていた。
「気にしておりませんよ。さ、これ以上はお体に障りますから」
「ああ……」
たとえ服の袖であっても、数えるほどしか十吉に触れた事などない鈴蘭は心臓がうるさくてたまらなかった。これではまるで生娘のようだと自嘲して、鈴蘭は廊下の途中で足を止めた。
「それでは、私は部屋に戻りますね」
十吉に一言残して鈴蘭は部屋に向かって歩き出す。一方十吉はそんな鈴蘭の後ろ姿に、消化しきれない気持ちを抱えたまま執務室へと向かおうとしたが、どうにも足が動かない。
「鈴蘭っ」
名前を読んでから、しまったと口を押さえるが、遅かった。廊下の先で期待と不安の入り混じった目で振り返る鈴蘭がこちらを見ている。
「どうかなさいましたか?」
「……いや、その、次の休みは冬物の着物を見に行こう」
それがどうにかこうにか絞り出した話題だった。
「……はい、ありがとうございます」
鈴蘭はふんわり微笑むと、一度礼をして再び歩き出した。
——どう言う風の吹き回し?
鈴蘭は突然の十吉の行動に胸がバクバクと音を立てるものだから廊下を曲がった先で座り込む。まるで少女のように舞い上がる心に戸惑うも、甘く疼く心に、ダメだと刃を突き立てる。
私はまだあの人が好きだ。愛している。愛しているから、やはり、私の存在は要らない。
結局、いつも最後に行き着く答えはそれだった。
「奥様」
いつの間にか部屋の前に来ていたらしい。懐かしい声が鈴蘭を呼んだ。
「イネさん……」
半年ぶりの彼女はどこか雰囲気が違った。
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