鈴蘭
鈴蘭が宇佐美の家の人間になって半年が経つが、二人の間に子供はできなかった。初夜と同じように同じベッドに横になっても指先すら触れない夜が続いていた。
鈴蘭の中でそれが正しいのだと講釈垂れる倫理観と、妻の勤めを果たすべきだと宣う情動が刹那的に対立し合い夜毎胸を痛めている。
隣で眠る十吉はと言えば、鈴蘭の事などまるで眼中に無いというように規則正しい寝息を立てて穏やかな顔で眠っている。
「私が姉様なら……」
言いかけて口を噤んだ。
——だって、十吉さんはこの言葉を嫌うから。
ある種の女神のように姉を神格化している十吉にとって、それと薄汚い自分とを同一視するなどあってはならないことなのだろうと鈴蘭は理解していた。近頃は少し打ち解けたようで気が緩んでいたのかもしれないと気を引き締める。
所詮自分は親からも愛されぬ哀れな忌み子なのだと。
十吉の呼吸に合わせてさらりと垂れた髪に触れたくなり、無意識に手を伸ばす。けれど皮膚の硬くなった自分の手を見るたびに我にかえり、背を向け唇を噛んで耐えていた。
「奥様、
朝食を終え、鈴蘭は自室にて十吉が用意した本を読んでいると女中がやってきた。いつもならイネが真っ先に飛んでくるのに、やはりあの話は刺激が強すぎたのだろうかと反省する。
「わかったわ、それじゃあ応接間に通してください」
読みかけの
あの女が来る理由なんて大体想像がつく、と鈴蘭は唇を噛んだ。金の無心か、事業についての口利き、あとは——子供。血筋というものに執着する鈴蘭の母はおそらく宇佐美家との繋がりのために自分と彼との子供を望むだろうと。けれどそう簡単にはいかないだけの事情がある。それを彼女は知っているはずなのに。
無神経な母の行動に鈴蘭は沸々とわく怒りを必死で押さえつけた。それは慣れている。
「失礼します」
鈴蘭が中に入ると母親の他にもう一人、見慣れない少女がいた。鈴蘭がその子に視線を向けると、それを切るようにお母様が口を開いた。
「相変わらず辛気臭いこと」
「お母様も相変わらずですね」
「まあ!」
もう貴方の庇護下では無いのだから、顔色を伺う必要もないのよ。
鈴蘭は宣戦布告と言いたげに怯えた様子など1ミリも見せずに腰を下ろした。
——わがままばかりで世間知らずなお嬢さん。それが鈴蘭のこの女に対する評価だった。
家柄、血筋、そんなものがなんになるというのだろうか、渋沢様なんて庶民の出だわ。太閤様もそう。血筋ではなく資質じゃない。それを、資質などない名を汚すばかりの男に嫁いで面汚しも良いところだわ。
胸の内でどれだけ罵倒しようとも、鈴蘭はその名のように可憐な笑みを浮かべて取り繕う。
「それで、今日はどんなご用でいらしたんです?」
早く帰ってほしくて促せば、母親はにんまり笑うと隣に控えていた愛らしい少女を紹介し始めた。
「この子は私の姉の娘で
母親の思惑に気付いて鈴蘭は恥ずかしくてたまらなくなった。この女はどこまで人を馬鹿にすれば気が済むのか。本当に自分のことしか見えていないようで、虫唾が走ると。
そう、母親の用件とはつまりこの八重香と言う少女を十吉の妾として家に入れろと言うのだ。
鈴蘭は穏やかな顔を取り繕って話を進める。
「そうですね、それで?」
「鈍い子ねえ……八重香さんを宇佐美家の女中として雇いなさい」
「お断りします」
「何ですって!」
鈴蘭が断ると思っていなかったのか母親だけでなく八重香も驚いていた所を見ると案外肝の座った子のようだと鈴蘭は八重香を見る。八重香の方は鈴蘭の視線など意に介さず、鈴蘭の母親に擦り寄る。
「お前にとっても悪い話ではないでしょう?半年も経つのに子供の気配もないなんて……八重香さんはお前の従姉妹に当たるのよ、彼女なら子供ができてもお前の子として育てればいいでしょう」
女中にお茶は要らないと伝えておいて良かったと鈴蘭は思った。今ここにそれがあればきっと目の前の女狐にかけていただろうから、と。
鈴蘭と十吉の間に子供ができない理由を想像することさえしない実母の姿勢に鈴蘭はただ眉を顰めた。そして、その隣で自分を見下すように見てくる従姉妹にも。仮に女中として家に入れたところでこんな指先まで白魚のように美しい女に仕事ができるはずがないのに。
「あら、何もわかっておりませんのね」
鈴蘭の笑みに、母親は眉を釣り上げる。
「そもそも、八重香さん……でしたっけ?女中として雇ったところでお仕事はできるの?」
「幼い頃からお母様のお手伝いはしておりました」
「たとえば?」
「干したものをしまったり、お料理の盛り付けをしたり、それから……」
「結構よ。その程度のことが出来たからと言って女中の仕事が務まるとは言えないわ。貴方は洗濯板を使ったことがある?お着物を一式繕ったことは?ご飯を炊いたことはあるのかしら?」
「それは、これから覚えれば……」
「その程度の仕事もできない者が宇佐美家の女中として相応しいわけがないでしょう?」
鈴蘭は大人気ないかもしれないと思いつつも、変な期待を持たせる方が酷だと敢えて冷たく突き放すことを選んだ。八重香は鈴蘭が思った通り甘やかされて育ったのだろう。初めて向けられる感情に戸惑い今にも泣きそうだ。
「でも、じゃあ鈴蘭さんはできるの⁈」
幼稚な言葉遣いと的外れな指摘に鈴蘭は頭が痛くなる。母親の方も八重香がこれほど無知な娘だと思っていなかったのか割って入るどころか固まっている。
「はあ、あのね、私は十吉さんの妻です。宇佐美家には女中ではなく夫人としてやってきたの。そもそも貴方とは立場が違うのよ。当然求められる仕事も違うわ」
これで懲りてくれれば良いけれど、八重香の表情から見るにそれは無さそうだと鈴蘭はこめかみを押さえる。そんな鈴蘭を置いて、八重香は「行きましょう叔母様」と鈴蘭の母親の手を引いて部屋から出た。
「きゃっ」
「大丈夫か?」
すぐにそんな声が聞こえて来て、鈴蘭は慌てて廊下に出る。そこには突然の事に目を丸くする十吉と、十吉を見てうっとりするような眼差しを向ける八重香とがいた。
できれば会わせたくなかったと溜息を漏らす鈴蘭をよそに八重香さんは非常識な一言を放った。
「あの、八重香を愛人にしてください」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます