鈴蘭

「大丈夫?」

 鈴を転がしたような声に安藤が顔を上げると、そこには春代が顔を覗き込むように立っていた。

 安藤にとって春代は煩わしい存在だった。

 安藤に限った話では無いが、特に好意も無い異性からの熱烈なアプローチというものは手に余る。特に春代のようにストレートながら本人に自覚がない場合、そのタチの悪さは安藤も身に染みて理解していた。

「大丈夫ですよ、春代さん」

 そう言って立ち上がれば、先ほどまで上から覗き込んでいた視線が、見上げるように動く。小さくてか弱くて、けれど気が満ちている彼女は一体どこからそんなエネルギーを生み出しているのかと感心してしまうほどで、その事さえ安藤はうんざりだった。

 それは、まさに安藤の幼馴染のようなのだ。

 いつも元気で野山を駆け回り、何をするにも全力な幼馴染は、ある日足を滑らせて消えてしまった。パッと消えたそれは蝋燭の灯りのようで、花火のようで、その物悲しさに心が悲鳴をあげるから安藤は彼女のような人間が嫌いだった。

「ねえ、安藤さんは奥様のような人が好きなの?」

 春代の思いがけない言葉に安藤は「え?」と目を見開く。いつもは細い安藤の瞳が見開かれた事に春代は少し胸を躍らせた。

「女の勘って言うのかしらね。貴方の目が、そんなふうに見えたの」

「……だとしても、そんなのどうだって良い事ですよ」

 所詮実を結ばぬ思いなのだ、枯れ落ちるだけなら無いのと変わらない。

「私は応援するよ」

「え?」

「ふふっ」

 春代の提案に安藤は驚くもその笑顔にやられたと眉間に皺を寄せる。なんて事はない、揶揄われたのだと気付いて不快だった。

「あら、拗ねてるの?やあねえ私本気よ?」

 種明かしをされるものと思っていたのにさらに重ねてきた春代の言葉に「揶揄わんでください!」と安藤は声を上げた。そして「別に僕はどうする気も無いんですから!」と言い残してさっさと十吉の元へ戻って行った。

「本気だけどなあ……応援したい気持ちも、安藤を好きって気持ちも」

 悲しげに微笑む春代の瞳を夕陽が刺して、春代は駆け足で厨房に戻った。


「今日のお料理は独創的ですね」

 並べられた食事に、鈴蘭と十吉は口角をひくつかせた。和とも洋とも違う不思議な料理の数々にこれは何事かと十吉も運んできた女中の顔を見た。

「本日は八重香が作りました」

 質問が飛んでくる前にイネが答えを白状した。

 今から少し前、イネが厨房に向かうと、そこには厨房に立つ八重香とぐったりとした秋音がいた。千草は今日は休みだからいないとしても春代の姿が見えないことが気にかかる。

「八重香、春代は?」

 イネは背を向けたまま何やら作業をしている八重香の元に歩み寄るとその華奢な肩を叩く。そして、その向こう側の光景に悲鳴をあげた。

「あ、あなた、これは何ですか‼︎」

「なんですの?」

 そこにあったのはざっくばらんに切られた食材の数々と醤油が並々と入った鍋、そして今日の主菜でだとそうとしていた魚が何をどうしたのかとにかく酷い裁かれ方をしていた。よもや死んだ魚を殺そうとは、とイネは言葉を失う。イネの様子にただ首を傾げる八重香にイネは終わったと絶望した。

「あら、イネさん?」

 どうやら疲れて眠っていたらしい秋音はイネの背中を見て声を掛ける。そして、部屋中に充満した醤油の香りに顔を青くして駆け寄った。

「これ、まさか全部入れたんじゃないだろうね?」

「あら?煮物とは醤油で煮るのでしょう?むしろこれでも足りるのかしら……」

 とんでもないことを言ってのける八重香に今度はイネが泡を吹いて倒れた。

 その後は文句を言う八重香に簡単な仕事を任せて八重香が切り刻んでしまった食材をどうにか活用しつつ二人で作ったものの、最後の最後で八重香が全てを炭にしてしまったと言うわけだった。

「……イネさん、少しお台所を使わせて頂いても?」

「え、ええ……」

 鈴蘭は立ち上がるとイネにも十吉の膳を持ってくるように言いつけて、台所に向かう。

 そこにはお茶の支度をする八重香と八重香を叱る春代の姿があった。二人は鈴蘭の登場に目を丸くし、八重香は更にその手に握られた膳に「どう言うこと⁈」と噛みついた。

「春代さん、お茶をお願いできるかしら」

 鈴蘭は八重香の方は見ずに、どうにか盛り付けられた料理の食べられそうな所を取り出すと、茶碗によそったご飯の上に乗せていく。そして、春代が用意したお茶をそれらと一緒に盆に乗せると、再び十吉の元に戻った。

「鈴蘭、どうしたんだ?」

 大人しく待っていた十吉は、鈴蘭の持ってきた物を見てなるほどと納得した。

「たまには茶漬けも悪く無い」

「明日からはイネも八重香さんにつける事にしましょうか」

「……そうだな、いや、明後日からにしよう」

 十吉は手を止めて鈴蘭を見つめる。鈴蘭も十吉の真摯な眼差しに手を止めた。

「明日は共に出かけよう」

 それはデートの誘いだった。

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