鈴蘭

「準備はできたか?」

「はい」

 翌朝、すっかりめかし込んだ鈴蘭は慣れない洋装に戸惑いながらも十吉の手を取った。

 今日は海の向こうの国からやってきた商人との打ち合わせだと言う。デートかと緊張していた鈴蘭だったが、少し気持ちが落ち着いた。と、同時に萎んだ。それでも隣を並んで歩けることは嬉しく、落とした視線の先にふわりと揺れるスカートの裾に胸を弾ませた。そんな鈴蘭を横目に見て十吉はまるで小動物のようだと微笑ましく見つめる。普段は着物しか着ない鈴蘭の新たな一面に十吉も少し戸惑う。

 そんな二人を少し離れたところから見つめるイネはこれが二人の関係改善のきっかけになればと一人闘志を燃やした。

「ここだ」

 そういって十吉が連れてきたのはカフェーだった。華やかな女性の給仕たちが鮮やかな着物に身を包み輝く笑みを浮かべる姿に鈴蘭は目を奪われる。カフェーというものの存在は知っていても、それは父が好むような下卑た店だと思っていたが、その考えががらりと変わった。

「ここは客層も悪くないからな。ああ、日葵ひまり奥の個室に頼む」

「はい!」

 十吉が声を掛けたのは雀斑が可愛らしい女の子だった。彼女は弾けんばかりの笑顔で振り返ったものの鈴蘭を見ると目を丸くした。

「あら十吉様、こちらのお嬢さんは?」

 興味津々と言った風に目を輝かせる日葵に気後れする鈴蘭の肩を抱いて十吉は「私の妻だ」と返した。

「へぇー奥様ですか……えっ奥様⁈」

 日葵の声に他の給仕たちも反応する。それは一言でいうと阿鼻叫喚だった。鈴蘭は改めて十吉の色男ぶりを再確認する。けれども当の十吉は気づいていないのか数度瞬きをしてから「客の前で叫ぶなんて」と眉をしかめた。

「あ、初めまして!私日葵と申します!ご主人にはいつも贔屓にしていただいて……」

「あら、いえこちらこそ。主人がいつもお世話になっております」

 日葵の勢いに引っ張られるように鈴蘭も頭を下げた。十吉はもういいだろうと鈴蘭の手を引いて奥の個室に向かった。刹那、鈴蘭は給仕の女性たちの鋭い視線を感じてまたかと頭を抱えた。

「日葵はあれで飲み込みも早く私に変な色目も使わないまともな給仕なんだが……驚かせてすまなかった」

「こちらにはよくいらっしゃるんですの?」

 鈴蘭にとっては軽い世間話のつもりだったが、十吉は世の夫と同じく詰められていると感じ固まった。鈴蘭はそんな十吉の様子など気にも留めずに運ばれてきたコーヒーに口を付ける。

「まあとても苦い飲み物なのね……姉様や十吉さんが美味しそうに飲んでいたから私てっきり美味しいものだと……」

「違うんだ!」

「え?」

 突然の十吉の声量に面食らったように固まる鈴蘭に対して十吉は必至で口を開く。

「君も僕の仕事については知っているだろう?僕の客たちはどうしてもこういう店が好きでね、付き合いで来ただけで一人では決して来ないんだ。だから君が心配するようなことは何も……」

「あら、私は何も心配などしておりませんよ?」

「え?」

 あっけらかんと答える鈴蘭に十吉はようやく鈴蘭を見た。拗ねていると思っていた鈴蘭の顔はどこか晴れやかで、自分への嫉妬よりも初めて訪れたカフェーへの好奇心が満ちている。

「そりゃ姉様と十吉さんの関係なら控えるべきだと言うでしょうけど、私たちはそんなんじゃないもの。気になさらないで」

 なんでもないことのように言った鈴蘭に十吉は胸の痛みを覚えた。今までは気づかないふりをしていたけれど、鈴蘭の言葉は完全に自分を拒絶したもので、自分が散々鈴蘭にしてきた仕打ち。それに傷つくと言う事はつまりはそういう事だ。けれど、やはり十吉はそれを認めまいとかぶりを振って「そうか、すまない」と絞り出した。

 その時、個室のドアが開かれてカフェーのオーナーがやってきた。いつも贔屓にしてくれている十吉に一言挨拶をという事らしい。

「いや~宇佐美様いつもお世話になっております!」

 眼鏡をかけたその男に鈴蘭は胡散臭いと思い十吉に視線を向ければ、十吉の方は外面スマイルを浮かべて応対する。

「いえ、こちらこそこの店の給仕は非常に真面目で取引相手からも評判がいいんですよ。おかげでうちとしても助かっています」

「やや、宇佐美家の旦那様が私なんぞにそんなお言葉遣い……勿体ない限りでございます。……おや、そちらの方はもしや、奥様ですか?」

 突然その狐のような視線を向けられて鈴蘭は喉を鳴らす。

 眼鏡だけでなく、西洋人を意識したような髭や佇まいも鈴蘭には胡散臭く映った。オーナーは相当やり手らしくまだまだ若造な十吉にも、世間知らずな鈴蘭にも丁寧に対応する。そこには嫌味一つ感じられない。

「ええ、彼女は私の妻の鈴蘭です。鈴蘭、彼はオーナーの三木さんだ」

「初めまして鈴蘭と申します、三木様」

「ああ、私に様を付ける必要はございませんよ、鈴蘭様」

 目を細める三木に鈴蘭は視線を逸らした。なんだか心を読まれそうで怖かった。当の三木は「それではこの辺りで失礼いたします」と言うと颯爽と出て行ってしまった。

 その後間髪入れずに扉が開かれ商談相手が現れた。鈴蘭は十吉の仕事が終わるまで、決して目立たず、不快感も与えず静かに座っていた。

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