鈴蘭

 商談は恙なく終わり、商談相手を見送ると十吉は立ち上がり時計を取り出した。

「どうせだから活動写真でも見て行こうか」

「……!」

 目を輝かせる鈴蘭に十吉は思わず笑みを溢す。そして、鈴蘭の手を取って歩き出した。

「今は何を上映していたかなあ」

「そんなにいろいろあるんですか?」

「ああ、まあ行ってみる事にしよう」

「きゃ」

 十吉が急ぐように大きく一歩踏み出すと、鈴蘭が体勢を崩す。十吉はそれを抱きとめると、初めて明るい世界で近づいた鈴蘭の顔に言葉を失った。

 日の光に透けるような明るい茶色の瞳に吸い込まれそうになる。筋の通った鼻の下にある、桜色の唇も、宝石のように輝いて、目が離せない。

「ごめんなさい」

 消え入りそうな声が十吉の鼓膜を揺らしてすぐ、名残惜しくも体が離れてしまう。十吉は慌てて「こちらこそすまなかった」と体勢を直し、冷えた腕に寂しさを覚えた。

 そして改めて腕を貸し、歩幅に気を使った。鈴蘭は菖蒲よりも少し背が低く、その分歩幅も小さかった。今までは何もかも違う鈴蘭に苛立っていた十吉も、今では新たな発見として其れを受け入れる余裕が生まれていた。そんな自分の変化に戸惑う事にも飽きてしまったように、十吉は自分の変化を受け入れつつある。けれど、そんな自分に気付くたびに、鈴蘭が作り上げた壁の高さを思い知るのだった。

 今はこうして十吉の腕に手を絡ませ頬を染める鈴蘭も、いざ十吉から触れようとすれば煙のように逃れてしまう。決して掴むことのできない彼女に、十吉はただ後悔することしかできない。

 生まれて初めての活動写真に目を輝かせる鈴蘭の横顔は菖蒲よりも眩しく見えた。興奮した様子で感想を告げる姿も愛らしい。

 けれど何よりも十吉の胸を満たしたのは、鈴蘭がまっすぐに自分の目を見てその愛らしい声で自分の名前を呼ぶことだった。

「……鈴蘭、今日は楽しかったかい?」

「ええ、とっても」

 ——それでも、十吉は鈴蘭を選ぶ事はない。

 どれほど思いを募らせても、

 どれほど鈴蘭を手に入れたくとも、

 どれほどその滑らかな肌に触れたくとも、

 菖蒲を裏切る事だけは十吉にはできないのだ。


 それは今日のように夕焼けが美しかった日、十吉は初めて恋をした。

 大きな目を潤ませながらも芯の強い瞳でまっすぐに自分を見る少女は、ただひたすらに自分を忘れないでと言っていた。

 その言葉の意味を知ったのはそれから十年後のこと。彼女は自分の死期を知っていた。理由なんてわからない。知りようもない。それは持病などではなく、流行病だったのだから。けれど彼女は予定調和だとでも言うように「お願いだから忘れないでね」と十吉に縋った。

「もちろんだよ、僕が生涯に愛するのは君だけだ」

 十吉の言葉に菖蒲は涙を流した。


「今日は夕食も外で済ませよう」

 隣を歩く鈴蘭に声をかければ、鈴蘭は「はい」と屈託のない笑みを浮かべる。

「それじゃあどこに行こうか」

「あの、三船屋と言うお店に行ってみたいです……」

 鈴蘭から返事が来ると思っていなかった十吉は目を丸くした。それに、鈴蘭が三船屋を知っている事にも驚く。家からほとんど出る事のない彼女の口からその店の名前が出るとは、と。

「……ダメ、ですよね。姉様との思い出の場所でしょうし」

 鈴蘭の表情に影がさす。十吉は「誤解だ」と慌てて弁明した。

「君がその店を知っている事に驚いただけだ。確かに、三船屋は菖蒲と何度か行ったこともあるが、あの日三人で行った飯田軒の方がずっと思い出の詰まった店だよ」

「では、三船屋でお願いします」


 三船屋は昔から贔屓の客しか入れない格式高い店だった。十吉は仕事相手の関係で幼い頃から父親に連れてこられ、やがて菖蒲も連れていくようになったものの、名ばかりの華族である千築の鈴蘭には縁のない場所だった。

 うなぎの寝床のような建物は奥まったところに入り口があり、進んでいくと広い建物と教育の行き届いた仲居が出迎える。

 圧倒される鈴蘭をリードするように十吉は部屋に案内してもらった。

 通された部屋はさすが宇佐美家とでも言うべきか、飛び入りにも関わらず上から二番目の部屋にすんなり通された。

「生憎椿の間は先客がおりまして……」

「なに、構うな。突然来たのは私達だ」

「恐れ入ります」

 二人がやりとりをする間、鈴蘭は中庭を見る。そこには建物と建物の間の小さな空間に見事な庭が築かれていた。

「素敵……」

 誰とはなしに呟くと、仲居が「こちらはお庭の眺めが一番良い部屋なんですよ」とにっこり笑む。鈴蘭は聞かれていた事の恥ずかしさから俯いてしまった。

「恥ずかしがる事はない。私もこの庭の出来には見惚れるほどだ。食事は適当に持ってきてくれ」

「かしこまりました。ではごゆっくり」

 仲居さんが去っていった部屋は静まり返る。元よりどちらもお喋りな方ではないが、今日は特にいつも話しかける鈴蘭が黙ってしまっている。仕方なしに十吉は口を開いた。

「今日はどうだった」

 ただし、その切り口は不鮮明だった。何か言わなければと焦ったせいか十吉の言葉は酷く足りない。余計に気まずくなって鈴蘭を見れないでいると、正面から鈴蘭の笑い声が漏れ聞こえた。

「ふふっ、とても楽しかったです。お仕事をする十吉さんを見れたり、憧れの活動写真を観たり。それに、一日の締めくくりに三船屋に連れてきてもらったんですもの。宝物のような一日でしたよ」

「う、うん……そうか、それなら良かった」

 幸せそうな鈴蘭にあてられて、十吉も微かに頬を染めた。考えてみれば二人きりの夕食はあまり無かったと十吉は鈴蘭を見て思った。普段は必ず誰か——特にイネ——が控えており穏やかな食卓というよりかは、鈴蘭の一日の報告会となっていた。だから、鈴蘭がこんなに綺麗に食事をすることなど十吉は気付かなかった。

 そんな僅かな気づきに十吉は胸が痛んだ。

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