鈴蘭
鈴蘭の事が頭の中で巡り十吉は寝付けずにいた。その女性的な繊細さについては、菖蒲にもよく揶揄われた。
やはり、十吉の思考の帰着点は菖蒲だ。けれども近頃どうにも鈴蘭の事を考えてならない事もまた事実だった。それが十吉にとっては後ろめたいものだったが、その理由に十吉は顔を背けていた。
——では、欺いておられるのはご自身ですか?
ふと、イネの言葉が蘇る。
それは十吉にとって触れられたくないところだった。その理由を考えることさえ生涯ただ一人と思い愛した人への冒涜にも思えた。
そのとき、布が擦れ合う音が隣から聞こえてきた。
「起きているのか?」
眠気が来ない十吉の声は昼間と同じ様に部屋に響いた。途端に音が止み、十吉は鈴蘭の事が気になった。声を掛けて静かになるのなら、聞こえていた証拠だ。けれど、何も返事はない。
よく耳を澄ませると、微かに鼻を啜る音も聞こえた。
「泣いてるのか……?」
鈴蘭の予想外な状況に十吉は目を丸くする。
「すみません、うるさくしてしまって」
涙交じりの声はか弱くて、いつもの感情を殺した様な鈴蘭とは違い年頃の少女の声に聞こえた。
「なに、うるさい事はない。どうした?怖い夢でも見たのかい?」
十吉は起き上がって鈴蘭の方を向いた。鈴蘭は泣き顔を見られたくないのか十吉の方は見ずに首を横に振る。
「いいえ、とても甘美な……誰もが求める最適解でした」
鈴蘭の言葉に十吉は顔を歪ませる。それは、自分が鈴蘭と本当の夫婦になることに他ならないからだ。だからこそ、少し突き放す様な言葉を返してしまう。
「僕が君を愛する夢か?」
「いいえ」
けれども十吉の予想に反して鈴蘭はまたも首を横に振った。十吉は当てが外れて自分が人でなしの様に思えてしまい、努めて優しい声色で問いかけた。
「それじゃあどんな夢を?」
「神様が仰ったんです」
鈴蘭の言葉に十吉は「うん」と相槌を打った。
「十吉さんが、私を愛せるようにしてあげようって」
「僕を揶揄ったのか?それじゃあ僕の言ったとおりじゃないか」
声を荒げる事は無かったが、鈴蘭にもこう言った意地の悪い一面があったのかと十吉は一周回って感心する。けれども鈴蘭はまた首を横に振った。
「いいえ、それは断ったんです。そしたら、何を望むのか聞かれて……」
「……君は何を望んだの?」
突き放していたのは自分とはいえ、鈴蘭が自分より望むものの存在に勝手に胸を痛める。鈴蘭は十吉がどんな気持ちでいるかなどまるで考える事もなく、夢の話を続けた。
「あの日死んだのが姉ではなく、私にしてください、と」
「……は?」
「私は二人のことが大好きでした。もちろん今でも。十吉さんは私にとって王子様みたいな人。でも、お姫様は私じゃない。姉様です」
話しながら鈴蘭はまた泣き出したようで声がどんどん尻すぼみになり震える。
「……だから、目が覚めた時生きているのが私でたまらなく泣きたくなったのです」
十吉はそんな鈴蘭に何も言えなかった。
結婚前ならばふざけるなと言えたのかもしれない。けれど、その頃と違いあまりにも鈴蘭という人物について知りすぎてしまった。それと同時に自分の残酷さにも気づいてしまった。
「……君が生きていることに意味はあるし、菖蒲が亡くなった事にもきっと意味がある。綺麗事だとわかっているが、君は君の人生を生きるべきだよ」
「……ありがとうございます」
鈴蘭の求める言葉もくれてやらずにどこかで聞いたような言葉を蓄音機の様に使う自分の情けなさに、十吉は鈴蘭の穏やかな寝息が聞こえても窓の向こうの月を眺めていた。
翌朝、八重香は十吉の母から持たされた紹介状を持って現れた。十吉はそこに不備がない事を読み込み、そしてそれが母だけでなく父からも——おそらく母に書かされたのだろうが——一筆添えられていた。
こうなってしまっては八重香を受け入れる他はない。十吉は鈴蘭の方を見てから観念した様に「それじゃあ今日から励むように」と言った。
とたんに八重香の表情は華やいだが、次いで十吉から飛び出してきた言葉に固まった。
「それじゃあ秋音、この娘の教育を頼んだぞ」
傍に控えていた女中の事は八重香も気になっていた。けれど、それがまさか自分の教育係だなんて思いもしなかった。
「承知いたしました。さ、おいで八重香」
自分より年上の草臥れた顔の女が一歩前に出てくる。八重香は奥歯を噛んで抗議の声を上げた。
「ちょっと待ってください‼︎どうして私がこんな女に習わなきゃいけないの?」
噛み付くように言えばすぐさま秋音の平手打ちが飛んできた。
「痛い!何するのよ‼︎」
「貴方こそ何をしているのかわかっているの?十吉様は旦那様ですよ、慎みなさい。それから私も貴方に女中の仕事を教える身。最低限の敬意は持ちなさい」
今まで蝶よ花よと育てられてきた八重香にとって、秋音のように立場だの責任だのを説いてくる人間は天敵以外の何者でも無かった。とは言っても、八重香にとっては甘やかしてくれない存在など全員敵であったが。
八重香は秋音を睨みつけると「お母様にお伝えしてもよろしいんですか?」と鈴蘭と何やら話をしている十吉に向かって叫ぶ。けれども十吉は気にした様子もなく、平然とした顔で「好きにしたら良い」と答えた。そして、そのまま鈴蘭と共に去ってしまった。
後に残されたのは八重香と秋音、そして安藤とイネだった。八重香は次にイネを見たが、すでに鈴蘭を気にかけているイネは秋音よりも凄みのある顔で八重香を見下ろす。
ついで安藤に目を向けるも安藤は頼りなさそうな笑みを浮かべるだけで何もしてくれない。
八重香の企みは前途多難だった。
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