鈴蘭

 その日の夜、十吉は寝室に入るのを躊躇っていた。

 八重香が母親の存在を持ち出した時、それを鈴蘭に黙っていた事に言いようのない罪悪感が込み上げてきたのだ。

 別にわざわざ話すべき事ではないのに。

 鈴蘭にも関わるような内容だったからか?

 ——いや違う。仮にそうだったとしても鈴蘭とは必要最低限の関係を維持できればいいのだから、わざわざ教える必要などない。

 では、なぜこんなにも泥の様なものが胸の内に堆積していくのだろうか。

 自分らしくないなと十吉は自嘲気味に笑った。

 菖蒲には初めから伝えていた。母が貴方の家を嫌っていると。けれどもそれを聞いた菖蒲は自ら母の元に出向き良好な関係を築き上げてしまった。いっそ、実の息子である自分さえ介入できないほどに絵に描いたような嫁姑の関係だった。だからと言うわけではないが、鈴蘭との結婚の話が持ち上がるまで母の胸に巣食う闇など忘れていた、と言うのが十吉の本音だった。

 結婚式の日も、その闇は鳴りを潜めただ粛々と行われた儀式に溶け込んでいた。

 と、言うよりもだ。あそこにはあまりにも悪意が渦巻いていたから、深い闇を見落としてしまっていたのだ。

 母が出てくるとなると分が悪い、と十吉は頭痛を覚える。

 母は大和撫子そのものと言った女性で決して目立たず、けれども夫を立てる人だった。けれど本来は恐ろしく頑固で自分の思い通りにならぬものには容赦のない恐ろしい一面もある。


「十吉さん?」

「すっ、鈴蘭か……どうしたこんな時間に」

 鈴蘭の声で意識を手繰り寄せられる。もうすっかり暗くなった家で、鈴蘭は廊下の先から現れた。十吉は鈴蘭は部屋の中にいるものと思っていたから、その登場に心臓が飛び出る心地だった。

 普段何事にも動じない十吉の姿に慣れていた鈴蘭は飛び上がりそうなほど驚いた十吉の様子にたまらず笑みをこぼす。

「ふふっ、イネと話をしていたら遅くなってしまったんです。今日のお夕飯も、私が作ったんですよ?」

 そう言って笑った鈴蘭の顔は儚い光に照らされて菖蒲の様に見えてしまった。十吉は自然と鈴蘭の腕を取り、その胸の中に閉じ込める様に抱きしめる。突然のことに驚くばかりの鈴蘭だったが、十吉の「菖蒲」と言う縋る様な声に、心がズタズタにされた。

 十吉は、呟いてから言ってはいけないことを言ってしまったと気づき慌てて鈴蘭の顔を見る。けれども鈴蘭は口角を上げていた。

 目元までは光が届かず、どんな目をしているかはわからない。けれど、光が揺れた様に見えて、十吉は居た堪れなさに寝室の扉を開けた。


 しばらくの間二人は無言だった。十吉が話したいことがあると言って鈴蘭に椅子に座る様促したが、月明かりが鈴蘭の瞳を照らしてくれないせいで、十吉はタイミングをはかりかねていた。

 鈴蘭の方はどうするべきかわからずただ困った様に座っていることしかできない。十吉が話しやすい様に何か言葉をかけるべきかと口を開きかけた時、十吉がやっと声を出した。

「母の事だ」

 そう言った十吉は難しい顔をしていた。

 鈴蘭は確かに気にはなっていたものの、自分が入り込んでいい話なのかもわからなかったため受け流すことに決めていた話題。だからこそ、十吉から切り出してくれて良かったと、気持ちを切り替えることができた。

 十吉も先ほどの失敗を気にしていただけに、鈴蘭の顔色が変わったのが見えて幾分安心する。

「母は君の家のことが嫌いだ。けれど、菖蒲とは上手くやっていた。……だから、家のことなど気にする必要はない。……だが、あの八重香と言う女の話が本当なら、女中として雇わねばならないこともあるだろう。……その時は何か事情を付けて追い出すから……それまでは我慢してほしい」

 鈴蘭の相槌が無く、気まずさから言葉を紡いでいく十吉だったが、最後に「ではそのように」といつも通りの声が返ってきて一息ついた。


 その後いつものように同じ布団に入った二人だったが、十吉はどうにも寝付けずにいた。母の事は何とかなる。当然八重香の事も。けれど、鈴蘭との距離感に困っていた。もし自分が変な意地を張らずに鈴蘭と子供を作っていればこんなにもこじれなかったのだろうか。そもそも結婚などしなければ——けれど、結婚をしなければ鈴蘭は今もあの家にいただろう。それにこれは亡き菖蒲の頼みでもあった。

 どれほど悩んでみても自分と鈴蘭とがたどり着くべき正解が見えず、いや実際は見えていないのではなく受け入れようとしていないのか、ともかく身動きが取れなかった。

 菖蒲の時だってこんなに悩む事はなかった。

 菖蒲はよくできた女だから、自分の望みは何だって言葉にした。だから楽だったし、その距離感がいつまでも続けばいいと思っていた。けれど鈴蘭は違う。何を求め、何を思うのか。それは言葉にもでなければ、顔にも出ない。ただ一つ確かな事は、鈴蘭が自分に惚れていると言うことだけ。

 そこまで考えて、十吉は罪悪感に押しつぶされそうになった。

 自分は若い娘を弄ぶ最低な男とさえ思えた。

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