鈴蘭

 翌朝、まだ日も明けきらぬうちから宇佐美家に来訪者があった。

 朝靄の中で、着物と長い髪を縛ったシルエットからそれが女であることはわかる。けれどこんな早い時間に弁えず現れる者などそうはいない。その証拠にこの時間に起きているのは家の中でもイネと鈴蘭だけだった。家主の十吉も穏やかな寝息を立てている。

 その人物は裏口を叩く。それに反応したのはイネだった。

「ごめんください」

 鈴の音のようなコロコロとした綺麗な声が静まり返った台所に響く。イネは相手が女だとわかると、何事かと裏口を開けた。

 ——そこに立っていたのは八重香だった。

「本日からこちらで住み込みの女中として働かせていただくことになりました、小橋八重香と申します」八重香の言葉にイネはサッと顔色を変えた。


 日が街を照らし始めた頃、宇佐美家の応接間に数人の男女がいた。

 十吉と鈴蘭が並ぶように座り、その向かいには笑みを浮かべる八重香が、十吉の後ろに安藤と、鈴蘭の後ろにはイネが控えている。八重香以外の全員が険しい表情を浮かべているのにも関わらず、八重香はどこまでも穏やかな微笑を浮かべていた。

「それで、どのようなご用件で?」

 十吉が口を開くと八重香は一層笑みを深くした。

「あら、ご両親から何も聞いてませんか?」

 もったいをつけた言い方に十吉は不快に感じたが、そこは商人といったところか、表には出さずに話を進める。

「何も聞いていません。父が貴方を紹介したんですか?」

「ふふっ、いいえ、お母様ですよ」

 八重香の言葉に十吉は今度は顔を白くした。

「悪いが帰ってくれ。ここはもう足りている。働きたければ母に雇って貰えばいい」

 十吉はとりつくしまもなく言うだけ言って立ち上がると安藤を連れて部屋から出て行った。

 タイミングを失った鈴蘭は、イネとともに八重香と対峙する。

「どうして何も言ってくださらなかったの?」

 十吉と安藤が消えると八重香の顔からは笑顔が消えた。それどころか怒りの滲んだ表情を浮かべキツく鈴蘭を睨みつける。

「何を言えと言うの?」

 その様はまるで母の様だと鈴蘭は冷めた目で八重香を見つめた。

 鈴蘭にとって、母は恐ろしい存在ではなかった。ただ機嫌をとっておかなければならない相手でしかなく、家を出た今はその醜さ悍ましさを思えば恐れるよりも哀れだと思う気持ちの方が強かった。そしてそれと同じ感情を八重香に向けている。

 八重香の方も鈴蘭は気が弱く世間知らずで強く出られたら何もできない弱者だと聞かされていた。だからこそ、親に言われるままに姉の婚約者と結婚したのだと。だと言うのに初対面のあの日から鈴蘭という人物は自分に対して一向に弱さを見せなかった。それは小動物がする様な虚勢ではなく、それどころか一本芯の通った大木の様な強さを見せるものだから、飼い犬に手を噛まれた様な腹立たしさと困惑とが混ざり鈴蘭に対して尊大な態度をとってしまっていた。

「何度来ても同じことです。帰って」

 立ち上がり、冷たい眼差しで八重香を見下ろす鈴蘭。いまだかつて見たこともないような威圧的な態度に、イネも口を出す気がすっかり失せてしまった。これ以上話す事など無いと言うように背を向ける鈴蘭に八重香は勝ち誇ったように笑った。

「あら、そんなことを言っていいの?」

「なぜ?」

「貴方、十吉さんのお母様とお会いしたこと無いでしょう」

 八重香の含みのある言い方に鈴蘭は口を閉ざす。ただ鋭い視線で八重香を睨む姿に八重香は笑みを浮かべた。

「やだあ、怖い顔」

 その様子に気をよくした八重香は尚も煽る様に言葉を続ける。

「十吉さんのお母様ってね、ここだけの話だけど千築の家をあんまりよく思ってないんですって」

 鈴蘭がイネを見るとイネは視線を落とした。どうやらイネも何か知っているらしい。

「それでね、千築の血を引いてる貴方よりも私の方が相応しいって思っているみたいなの」

「まあ菖蒲さんの事は一目置いてたみたいだけど」と意地悪く付け加えると八重香は立ち上がった。

「まあ今日は無理でも明日か明後日にはお母様からの手紙が届くはずよ。そしたら私がこの家の子供を産んであげるから感謝しなさい」

 言いたいことだけを一方的に並べ立てると八重香は部屋から出て行った。

「旦那様が選ぶはずもないのに……」

 二人で残された部屋でイネは呆れた様に言った。

 鈴蘭もそれには同意だったが、十吉の母親というものがどうにも気にかかる。

 思えば結婚式の日に十吉の家族と交わした会話などほとんどなかった。当たり障りなく迎えられたものの、そこに繋がりなんて微塵も持つ気がなく、ただ形式のためだけの挨拶。

 十吉側の出席者は皆菖蒲と親交があったため、そんな態度にいちいち反応する余力など鈴蘭には残されていなかったが、改めて十吉の家について問われると何も知らない事に気づいた。

「姉様なら知っていたのかしら」

 誰もが羨む二人の事だ、誰にも言えない秘密の一つや二つ共有していたとしてもおかしくはない。

 そんな当たり前の事実が鈴蘭の胸に重くのしかかってきた。

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