鈴蘭

 八重香が来てから一週間経ったが静かなものだった。鈴蘭と十吉は拍子抜けしてしまうほどで、何か企んでいるのかと時折厨房を覗くも、その理由に納得してそれぞれの仕事に戻る。

「ほら、そこまだ汚れが残ってるよ!……全く布巾がべちゃべちゃじゃないか。こっちを使いな」

「もう!手がボロボロだわ!口ばっかり出して、貴方がやればいいじゃない!」

「ここに女中としてきたのはあんただろ?嫌なら出ていきな!」

 そこには絶えず言い争いをする八重香と秋音の姿があった。

 この一週間ずっとこの調子だった。様子を見に来た鈴蘭は、あとをついてきたイネと顔を見合わせる。そして、二人で小さく笑った。

「これならしばらくは問題なさそうね」

 安心したように息を吐く鈴蘭にイネは「でも油断大敵ですからね」と奥歯に引っかかったように答えた。

 鈴蘭が首を傾げるとイネは「いいえ」と呟くように返して鈴蘭の背を押して厨房から離れた。

「もう冬ね」

 窓の向こうの枯れ木を見て鈴蘭は物思いに耽る。冬が終われば鈴蘭がここにきて一年が過ぎたことになるのだ。結婚前に想像していたような地獄は無かったけれど、心のどこかで自分の幸せを願ってしまう事実に自嘲する。

「そろそろ羽織物を出す頃ですね」

 イネは思い出したように言った。鈴蘭は目を丸くする。思えばこれまでの人生でそれを身につけた事は無かった。言われてみると確かに姉はいつも暖かそうな羽織を肩から掛けていた。

「でも私、そう言ったものは一枚もないわ」

 鈴蘭の言葉にイネは胸を張る。

「何をおっしゃいますか、旦那様がキチンと用意しておりますよ」

 イネはそういうと箪笥を開けた。その中には厚さや柄がさまざまな肩掛けがあり、選ぶだけで日が暮れてしまいそうだった。

「今日なんかはこのくらいがよろしいかと」

 そう言って取り出したのは青竹色の肩掛けだった。それは赤香色の着物によく映える。鈴蘭は目を細めて喜んだ。

「姉様はね、名前の通り菖蒲色を好んで着ていたのよ。けど、私はほら、鈴蘭色なんて無いから……。けれど、この色は少し私らしくて良いわね」

 そう言って鈴蘭は目を丸くした。イネがどうかしたのかと訊ねると鈴蘭は「ごめんなさい」と言う。イネはわからず首を傾げると、鈴蘭は申し訳なさそうに言った。

「私、いつも卑屈だなって思ったの。事あるごとに姉様の話をして……。十吉さんに前を向いて欲しいと思っているのに、私こそだわ」

「……それだけ、鈴蘭様にとって大切な存在だったのでしょう。私は構いませんよ。菖蒲様のお話をなさるときの鈴蘭様は、とても柔らかい表情をされますから」

 シワだらけの頬を緩ませるイネに鈴蘭は「そうかしら」と頬を染めた。自然と右手で自身の頬に触れて、綻ばせる。鈴蘭は菖蒲の生前には後ろめたさや罪悪感、それに羨望が混ざり合って、決して綺麗とは言えない感情しか向けられていないと思っていた。たしかに実際はそうだったのかもしれない。けれども、その中にも大切に思う気持ちはあったのだと気付かされただけのこと。

「ありがとう、イネ」

「あら、私は何もしておりませんよ」

 済ました顔のイネに、鈴蘭は微笑んだ。


「素敵なお召し物ですね」

 せっかくだからと表に出てくると、そこには安藤がいた。和やかに対応するイネと違い鈴蘭は少し距離を取る。安藤はそんな鈴蘭に詰め寄るようなことはせずに、手に持っていた籠を木の上へと掲げた。

「そちらは?」

 イネの問いかけに答えるように、籠の中から小さな雛が現れた。こんな時期にと目を丸くする鈴蘭に安藤は「さっきコイツの鳴き声が聞こえたんですよ」と微笑み掛けた。

「触れてしまうと親に捨てられてしまうかもしれないから、こうやって……ね?」

 木から降りてくると安藤はわかりやすく空になった籠を見せた。イネはそんな安藤の好青年ぶりを好ましく思っている風だった。

「貴方は優しいのね」

 抑揚の無い声で言った鈴蘭はあの日安藤に掴まれた手首をおさえた。安藤もそれに気付いたのか「そんなことないですよ」と歯切れ悪く答える。

「あらいけない!お夕飯の支度をしなくては、私は失礼しますね」

 イネはそういうと返事も聞かずに行ってしまった。鈴蘭は戻るタイミングを失い、その場に立ち尽くす。

 ——何も自分が悪いわけでは無い。

 鈴蘭にもそれはわかっていた。けれど、どうにも気まずいこの空気をなんとかする方法など知らなかった。何も言わない安藤が気になったが、彼の顔を見ることで誤解させてしまうことが怖くて顔を背ける。

「……怖いですか?」

 掠れた声で尋ねる安藤に鈴蘭は胸をキュッと掴まれた心地がした。思わず安藤の顔を見れば、安藤は悲しげに笑っていた。そして、勢いよく頭を下げると「あの時はすみませんでした!」と大きな声を出す。驚いて「やめてちょうだい」と焦る鈴蘭に、安藤は今度は小さな声で「すみません」と謝った。

「……もう良いわ。お前はあの人のお気に入りだから。これまで通り、私達はそれぞれの役割を全うするの。決して、道を踏み外すことなく、ね」

 刹那どこまでも冷たい鈴蘭の瞳が安藤を捉える。そのゾッとする美しさに、安藤の目には自然と熱が帯びた。けれど鈴蘭はそのことに気付かぬまま、安藤に背を向けて建物に戻った。

「はぁー……僕、やっていけるのかな」

 大きな体でその場に蹲ると安藤はすっかり冷えた手で熱くなる頬に触れた。

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