鈴蘭
「まだ喪が明け切らないと言うのに……」
あれだけ可愛がってきた菖蒲が亡くなったのに、両親の関心ごとは家の事ばかり。それを漠然と悲しく思いつつ
「菖蒲姉様……」
傍で鼻を啜る弟に「お前は泣けて良いわね」と嫌味をぶつけた。当然弟は顔を上げて睨みつけてきたが、鈴蘭は視線を交わさずに部屋へと向かう。
鈴蘭の部屋より広いものをあてがわれた菖蒲の部屋は扉から違った。そっと開けば角部屋のそこには気持ちのいいくらいに陽が差し込み、部屋の中は菖蒲の好きなもので埋め尽くされていた。中にはちらほらとどこか菖蒲らしくない小物が散りばめられていて、一目でそれが重吉からの贈り物なのだろうと鈴蘭は理解した。
「なんて寝心地のいいベッドかしら」
古くなった自分のものと違いふかふかなベッドは寝転んだだけでも良いものだとわかる。微かに香る菖蒲の香水の匂いが鼻を掠めて鈴蘭はようやく涙を流した。
「菖蒲姉様、どうして貴方なの?私だったら……きっと、誰も泣かなかった。姉様もそう思うでしょう?心置きなく十吉さんと会えるのだから……」
ここに寝転んでいると昔菖蒲が抱きしめてくれた事を思い出して鼻の奥が痛い。
あの時は何だったか、そう、まだ鈴蘭が今の弟より幼い頃、お客さんが来ているからと押し入れに閉じ込められたとき。暗くて怖くて泣いていた鈴蘭の元に、席外して菖蒲が来てくれた時のことだ。
「ねえさまっ、ねえさまぁ‼︎」
「よしよし鈴蘭。大丈夫よ。姉様がいるから怖かないわ」
そう言って宥めてくれた。小さなクリームパンみたいな手で時折背中を叩いたり、撫でたりして落ち着くまで抱きしめてくれていた。
思い出というのは不思議なもので枯れていたはずの涙を誘発する。結局その後、鈴蘭を不憫に思った菖蒲がここならバレないわと自分の部屋に連れて行ってくれたのだ。
あの頃はまだ幼くて自分との待遇の差も気にならなかった。
「本当によくできた人だったわ」
思い出に浸ろうと目を閉じた鈴蘭の瞼を開けたのは母の金切り声だった。
「ちょっとあんた!そこで何やってるのよ⁈」
驚いて飛び起きれば、そこには母と十吉さんが立っていた。母は立ち入り禁止だ、とかお前が入っていい場所じゃない、とか喚き立てたが隣にいた十吉はまっすぐ鈴蘭のもとに歩み寄りその目尻に滲んだ涙を親指で拭ってやると「やっと泣けたみたいだね」と壊れそうな笑みを浮かべて言った。
「……ごめんなさい、姉様の布団汚しちゃって」
「このくらいなら大丈夫だよ」
「……ごめんなさい」
「大丈夫だって、ね?」
「生きてるのが私で、ごめんなさい」
「……っ」
鈴蘭は笑顔を浮かべてそう言った。きっと本心なのだろう、けれど十吉はその言葉は聞きたくなかった。それは、菖蒲の命を冒涜しているようで、顔から表情が抜け落ちて立ち上がると入り口に立つ母に「また明日出直します」と告げて出て行った。
「アンタもさっさと出て行きなさい!」
「はい」
菖蒲の部屋を出て急いで十吉を追いかける。幸い十吉は歩きで来ているので走れば追いつくことができた。
「十吉さん‼︎」
健康的な十八の男と小柄な十二の女の歩幅は大きく違ったが走れば何とか追いつけた。
「ごめんなさい、私……気分を害してしまって……ごめんなさい」
息も絶え絶えに声を掛けて顔を上げると十吉は貼り付けたような笑みを浮かべていた。それに怯む鈴蘭を見て無駄だと悟り無表情に戻る。
「君の境遇を憐れむ気持ちはあるよ。でもね、菖蒲は懸命に生きようとした結果なんだ。君のような待つばかりの人間の命と比較してほしくはない」
「あ、ごめんなさい……そう、ですよね。姉様はいつだって何でもできて……」
「その裏の努力を君は知っているか?」
「え」
努力、努力?
鈴蘭には理解ができなかった。家庭教師は最高のものを与えられ、家では好きなだけ
それに引き換え鈴蘭は師なんていなかった。少しでも金をかけたくないから、と言われいつでも菖蒲の見よう見まねで、文字を覚えるのにだって本当に苦労した。誰も教えてくれないのだ。家の中を歩き回るだけでも使用人たちからは陰気臭いと言われ自分の家なのに自由なんて無い。できない事は責められできる事は褒められない。そんな環境でありながらここまで他の令嬢と変わらない作法を身につけた鈴蘭こそ努力の塊だった。
——しかし、十吉はそんな事は知らない。だから他の人間と同じように無知の刀で鈴蘭の心を引き裂けるのだ。
「姉様の努力?そんなのあれだけ先生がいたら猿だってよくなります‼︎姉は与えられてきた人間なんですよ?私なんて……その一割も与えられずに生きてきたのに……」
いくら十吉といえど素直に聞き入れる事はできなかった。これ以上十吉に傷つけられたくはないと、来た道を駆ける。
心の拠り所とまではいかなくとも他の人よりずっと大切な存在だった姉を亡くし、さらには愛する人にも突き放されて鈴蘭の心はぐちゃぐちゃだった。
家に戻り自分の部屋に逃げ込む。そこは菖蒲と比べて本当に質素で、鈴蘭のものと言えるのはあの日十吉がくれた髪飾りだけ。最低限のもので埋め尽くされた部屋で鈴蘭は一人膝を抱えた。
翌朝、十吉が再びこの家を訪れた。なんでも菖蒲の形見を一つ持っておきたいと言うのだ。本来であれば昨日だったのだが、鈴蘭との事もあり出直したらしい。
十吉は菖蒲の部屋に飾られた、自分からの贈り物に頬を綻ばせながらその場にいた使用人に、どれをいつ贈ったのか楽しそうに語った。
そうして、最後に菖蒲がいつも身につけていたブローチを手に取ると「これにします」と言って大切そうに
それから十吉は廊下の反対にある鈴蘭の部屋に向かう。昨日の事で自分も言い過ぎたと反省していた。使用人は鈴蘭の部屋に向かっていることに気づくと「そちらは」と止めようとする。けれど十吉は足を止めず
「鈴蘭、僕だ。十吉だ失礼するよ」
「ダメ!」
鈴蘭の声を待たずに開け放たれた部屋を見て十吉は言葉を失った。
カーテンも無いのに日があまり差し込まない部屋に、ベッドとその上に乗った薄い布団、家具なんかも最低限で箪笥さえない。割れた鏡の乗った鏡台に大切に置かれた髪飾りがこの部屋にはどうにも異質だった。
「……ここが、鈴蘭の部屋?」
先ほど見てきた菖蒲の部屋との違いに十吉は信じ難いような狐に摘まれるとはこう言う事なのかと理解が追いつかなかった。
「……どうなさったのですか」
「いや、昨日の非礼を詫びようと……すまなかった」
深く頭を下げる十吉に鈴蘭は熱を持たない声で「気になさらないでください」と答える。
「慣れていますから」
その一言は頬を叩かれるよりも十吉には痛かった。
「用が済みましたら、どうぞお引き取りを」
「あ、ああ。失礼するよ」
十吉は扉を閉めると使用人を見る。使用人の女性はバツが悪そうに肩をすくめるばかりで埒があかないと十吉は鈴蘭の父母の元へ向かった。
「あなた方はどうかしている!」
開口一番に侮辱され二人の顔は引き攣った。十吉はそんな事には構いもせず鈴蘭をあそこまで冷遇する理由を問いただした。
「理由?そんなものあれがうちの娘ではないからですよ」
「何を言っているんですか?正真正銘貴方の子供でしょう?」
「そうね、そうだけど違うわ。でしょう?あなた」
母の言葉に父は視線を逸らし煮え切らない返事をする。
「少なくともあの子は望まれた子じゃないのよ。全く、何をそんなに……まあ、そうだわ!」
ぶつぶつと文句を垂れる彼女は突然何かを思いついたようにパッと笑みを浮かべる。
「そうよ、そんなにあの子が気になるなら、あの子と結婚なさったら良いんだわ」
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