鈴蘭

「今日はダメよ」

 あれから数日が経ち、今日も菖蒲は綺麗に整えて家を出て行った。連れて行ってと要求するつもりでやってきた鈴蘭はその牽制に「わかりました」と返して萎んだ胸を引っ提げて部屋に戻った。菖蒲は悪い事をしたかしらと胸を痛めつつも、十吉との約束の時間が迫っていると慌てて家を出て行った。

 鈴蘭は窓越しに出て行く菖蒲を見送り「私が恋人なら良かったのに」と小さく呟いた。


「今日は一人みたいだね」

「ええ、デパートへ行くと言っていたから」

 待ち合わせ場所には西洋の服を着こなした十吉が待っていた。菖蒲の方は日本の淑女らしい着物姿で夏の時期によく合う涼しげな衣装を身に纏い道ゆく人の視線を奪う美しさ。そんな婚約者がいることが十吉にとって一つのステータスであった。

「鈴蘭も連れてきても良かったんだよ?」

「あら、それじゃあ次は連れてこようかしら?」

「ふふっ、冗談だ。僕も菖蒲と二人で過ごす時間が欲しかったところだよ」

 甘いセリフに菖蒲は「ありがとう」とすまして答える。

「手強いな」

「貴方ほどじゃないわ」

 誰が見てもお似合いの二人は百貨店の中に消えて行った。


 一方、家に残された鈴蘭は部屋の中を見渡してため息をこぼした。菖蒲からもらった服に菖蒲からもらった家具、アクセサリー、そのほか何もかもが鈴蘭の好みを無視したもので埋め尽くされた部屋だった。そこは鈴蘭の部屋と言うよりも菖蒲の思い出を閉じ込めた部屋でしかない。だから愛着も何もなく、鈴蘭にとっては居心地の悪い空間だった。


 本棚から遠い西洋の昔話を集めた本を取り出す。その中では虐げられてきた娘が王子様に助けられている。自分の境遇と重ねて唇を噛んだ。

「でも、十吉さんは姉様の王子様だわ」

 あの素敵な紳士を思い浮かべて目を閉じる。自分には絶対に手の届かない人。もし自分の元に転がり落ちてきたら、絶対に抱きしめて離さないだろう。そんな夢を見て目を閉じた。

「鈴蘭様、奥様がお呼びです」

 ノック一つせずに開け放たれた扉に顔を顰める気も起きない、と鈴蘭は起き上がって言われるままに母の部屋に向かう。

「お前、来年から女学校に通いなさい」

「え?」

「そこで誰かお前の面倒を見てくれる人を探してきなさい」

 勉強ができる事を喜んだのも束の間、それは体の良い厄介払いの通達でしかなかった。それでも、てっきり自分は金があるだけの爺に嫁がされると考えていた鈴蘭にとっては悪い話ではない。余計な事は言わず、丁寧にお辞儀をして鈴蘭は部屋を出る。それは願ってもない幸運だと、笑みを浮かべた。


 その日帰ってきた姉様の隣には十吉さんと沢山の箱があった。中には菖蒲への贈り物が詰まっていて、それが十吉の気持ちを示していた。

「鈴蘭、君にもこれを」

「まあ、なあに?」

 突然名前を呼ばれて、嬉しさから駆け寄り小さな箱を受け取る。そっと箱を開けるとそこには髪飾りが入っていた。正真正銘、鈴蘭のために買われた品。

「おいで、付けてあげるわ」

 菖蒲の言葉に喜んで箱を差し出し顎を引けば、菖蒲が可愛く留めてくれる。十吉は「よく似合っているね」とリップサービスを忘れない。頬を染める鈴蘭に十吉と菖蒲は顔を見合わせて微笑んだ。

「実は、菖蒲さんのご両親にお話があって参りました」

 十吉の言葉に鈴蘭は続きを聞きたくなくて後退りする。誰もそんな鈴蘭は気に留めず、両親と十吉、菖蒲はそのまま客間へと消えて行った。

「大事な話ってなんだろう」

 まだ何も知らない弟の純粋な問いに、鈴蘭は「決まってるわ、結婚の申し込みよ」と答えた。それから間も無く客間からは楽しげな四人の声が聞こえ、鈴蘭の想像が事実だとわかると、鈴蘭は耐えきれず部屋へと戻った。


 翌日、鈴蘭が珍しく朝食の場に呼ばれ行けば、二人の結婚について聞かされた。いつか来るとは分かっていても、いざそれが目の前にやってくると身動きが取れなくなってしまう。鈴蘭は「おめでとうございます」となんとか絞り出した。

「……ありがとう鈴蘭」

 菖蒲は鈴蘭を抱きしめそして、その場に倒れた。

「姉様⁈」

 膝を床につけて菖蒲の体を揺する鈴蘭。母は悲鳴をあげ、弟はその場で座り込み、父は医者を呼べと叫ぶ。

 ほどなくして到着した医師によって菖蒲が結核だと判明した。

 それからは早かった。菖蒲はすぐさま鎌倉のサナトリウムに行ってしまったが鈴蘭達が感染していないとも言い切れず、人との接触を避けた。

 結果として誰も感染していなかったのだが、その年の冬に菖蒲はこの世を去った。

 葬儀では十吉が泣き弟が泣き、父と母は泣いてるふりをした。鈴蘭はただ一人涙を流すこともできずに、位牌を眺めていた。

「どうして泣かずにいられるの?」

 それは弟の問い。その言葉に他の人達が鈴蘭を責めるように口を開く。

「姉を憎んでいたのか」

「血も涙もない子」

「鬼のような性根だ」

「そんなんだから愛されない」

「姉に嫉妬していたのね」


「どうせならお前がしねばよかったんだ」


「やめろ!」

 静寂を作ったのは十吉だった。愛しい人を亡くし、苦しみに喘ぐ彼に人々は分が悪いと口を閉ざした。

「鈴蘭、泣いていいんだよ。君は間違いなく菖蒲を一番愛していたんだから」

「……ごめんなさい、私もう泣き方がわからないの、ごめんなさい」

 十吉の胸の中で、どこまでも静かな瞳のまま鈴蘭は姉の死を悼んだ。胸が張り裂けそうに痛むのに、どうしても涙が出なくていっそ杭で打たれてしまえればどれほど楽だろうかと、そう考えて瞼を閉じた。

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