鈴蘭

 “由緒正しい千築ちずき家”と言うのが母親の口癖だった。父は無口な人だったから口にこそしなかったけれど、母と同じ考えだったのだろうと鈴蘭は思っていた。

 鈴蘭すずらんはこの家の次女。確かに両親から生まれた子供だが愛されてはいなかった。容姿に問題があるわけでは無い、ただ必要とされていなかったのだ。

 娘は長女の菖蒲あやめがどこに出しても恥ずかしくない器量良しに育ったためそれで十分だったし、息子は鈴蘭の下に弟が生まれた。要は宙ぶらりんの存在。

 それを悲観する気持ちも多少はあれども、それを誰かにぶつけると言う事を知らない鈴蘭は溜め込む一方で、それでも鈴蘭が前向きでいられるのは、姉の恋人である宇佐美うさみ十吉じゅうきちの存在があったからだろう。

 十吉は近頃その手腕から上流階級からの覚えもめでたい商人の青年。人当たりもよく、誰からも大切にされない鈴蘭の事も一人の人間として尊重してくれていた。


「菖蒲姉様、どこ行くの?」

 いつも無地の着物ばかり着ている菖蒲が年頃の女性らしく着飾る日は必ず十吉に会いに行く時だった。だから、邪魔者だとはわかっていても、鈴蘭は声をかけてついて行く。

「あら鈴蘭、ちょっとね、十吉さんと活動でも見に行こうかと思ってね」

「まあ!活動‼︎私も見に行きたいわ!」

「でも、十吉さんの迷惑にならないかしら……」

「……お姉様ったら狡いわ。私がこの家でどんな扱いを受けているのか知ってるくせに……」

 どれだけ食い下がっても菖蒲はこの一言に弱かった。それを知っているからこそ鈴蘭はあえてその罪悪感を利用する。

「わかったわ、それじゃあ早く支度していらっしゃい」

「ありがとうお姉様」

 けれども卑怯な手を使って勝ち得たものは望む姿で手に入る事はない。

 実際に鈴蘭の姿を見た十吉は顔を顰め、露骨に邪魔者扱いをした。恋は盲目といえど鈴蘭もそれは理解している。それでも家にいるよりはマシだと、十吉の顔を後ろから時折眺めるだけで幸せだった。

「鈴蘭さんは何が食べたい?」

 十吉が連れて行ってくれた西洋料理店は、おしながきを見ても何が出てくるのかよくわからず「姉様と同じものを」と答えるので精一杯で、食べ方も姉のを見よう見まねで食べる。

「ふふっ、こんなところについているよ」

 そう言って姉様の頬についたソースを拭ってやる十吉に、頬を染める菖蒲。鈴蘭はそんな二人を見てそっと自分の口の端についたソースをナプキンで拭った。

「ご馳走様でした」

「ご馳走様です」

「いいえ、また来ようね」

「ええ」

 その“また”は姉に向けられたもの。だから鈴蘭は返事をしなかった。すると十吉は鈴蘭の頭を撫でて「鈴蘭も」なんて言うのだ。それが菖蒲に向けたパフォーマンスだったとしても、うるさいくらいに胸が高鳴ってしまう。

「はい!」

 こんな一言で胸がいっぱいになってしまう。


 日も沈みかけた黄昏時、十吉に送ってもらった鈴蘭と菖蒲は家の前で口裏合わせの相談をする。

「いい、鈴蘭。お父様やお母様には今日食事してきた事は内緒よ」

「大丈夫よ、二人は私の話なんて聞かないもの」

「でも一応ね。いいこと?私たちは活動を見て、そのあとは十吉さんの行きつけの料理屋さんに行ってたのよ」

「なんてお店?」

「そこまでは良いわ」

「……絶対に聞かれるから姉様だけは用意しておいた方がいいわ」

 鈴蘭はそう言い残してさっさと家に入ってしまった。そんな小さな背中を心配そうに見つめて、菖蒲も後に続く。刹那、菖蒲は咳き込んだ。手には赤いものがついて、菖蒲は眉を顰める。それは自分に残された時間を物語っていた。


「どこへ行っていたの?」

「十吉さんと活動へ」

「まあ十吉さんと!」

 十吉の財産を狙う両親は二人の交際には賛成で、十吉の名前を出せばいつも機嫌を良くしていた。今回も例外ではなく、こんな時間まで遊び回っていた娘に釣り上がっていた目尻はすっかり下がって恵比寿顔。その変わりように菖蒲は苦笑を漏らす。

「ええ、鈴蘭も一緒に……」

「あの子をどうして連れて行ったの?」

「あ、未婚の男女が二人きりなんて……外聞も良く無いでしょう?」

「……そうね」

 渋々納得した母にほっと胸を撫で下ろす。どうしてこうも鈴蘭ばかりを嫌うのか菖蒲には到底理解ができなかったが、自分の立場のためにも必要以上に鈴蘭に肩入すべきでは無いと言うのが菖蒲の持論。その結果鈴蘭がどれほど肩身の狭い思いをしても菖蒲が手を差し伸べる事はない。それは鈴蘭もよく心得ていた。だからそれを直接的に責める事はしないが今日のように二人の時間にお邪魔するのが鈴蘭にとってせめてもの意思表示なのだ。

「それでは、今日は私も疲れたのでもう休みますね」

 これ以上追及されぬようにと菖蒲は踵を返して部屋から出て行こうとするが、その背中に母の声が突き刺さる。

「あら、夕食は?」

「十吉さん行きつけの料理屋に行ったので今日は」

「あら、どこかしら?」

 期待した眼差しで見てくる母の姿に菖蒲は鈴蘭とのやり取りを思い出していた。なるほど、そう言う意味か、と。菖蒲は母親の思惑を察して「大通りから一本入ったところにあるお店よ確か三船屋って言ったかしら」などと言って濁す。

「そうなのね、まあ今日は疲れたでしょう。ゆっくり休むのよ」

「……はい、お母様」

 十吉さんと懇意になろうと言うのが透けて見えて我が親ながらなんと浅はかなのだろうと菖蒲は辟易した。父も何も言わないくせに菖蒲の言葉を離れた席で待っていた。聞き耳を立てるなんて下品な事だと言ったのは誰だったか。

 無駄に争っても利はないと菖蒲はそそくさと部屋に戻った。

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