鈴蘭

「あんた、十吉じゅうきちさんと結婚しなさい」

 朝、珍しく母が部屋に来た。そして開口一番にそう言った。鈴蘭すずらんは寝ぼけた頭で理解が追いつかずただ黙って母を見つめる。

「聞いてるの?」

「あ、はい」

 慌てて返事をするも母の言葉を反芻して慌てて否定する。

「ダメです!だって、十吉さんは姉様の……」

「もうすでに先方には許可をいただいているのよ」

「……は?」

 聞き間違いだと思った。けれども、確かに母は許可をもらっていると言った。十吉がまさか菖蒲あやめが死んで間もないと言うのに賛成するなんてあり得ない、ましてやその相手が自分だなんて、鈴蘭は困惑しつつも「それだけはできません」と声を上げた。

「お黙りなさい!……お前に選択肢など無いのですよ。でも良かったんじゃありませんこと?お前も十吉さんに横恋慕してたんだろ?」

「やめて‼︎……もう良いでしょう?姉様は病に命を奪われ、さらに妹に婚約者を奪われるの?私はそんなこと望んでなんかない」

「それじゃあなにかい?十吉さんを断って私らよりも年上の爺と結婚したほうがマシだって言うのかい?」

「……はい」

「はっ、肩を震わせながら言うことかい!……ともかく、お前に拒否権は無いんだ。わかったね」

 母はそう吐き捨てるように言うと部屋から出ていく。鈴蘭はその場に座り込んでこんなこと間違ってる、と思うもずっと片思いを続けてきた十吉さんと結婚できる、そんな考えが過って上手く頭が働かない。

「……どうしたらいいの、姉様」

「僕と結婚すれば良い、それだけだよ」

 思いがけない返答に顔をあげれば、さきほどまで母がいた場所に今度は十吉が立っていた。けれどもその瞳は言葉とは裏腹に冷え切っており、鈴蘭は素直に喜ぶことができなかった。

「どうしてですか?」

「どうして、とは?」

 射抜くような視線に怯む。十吉はどう考えても鈴蘭との結婚を望んではいない。だと言うのに、どうしてその選択肢を自ら与えるのか、鈴蘭には理解が及ばない。そんな様子を見て十吉は鼻で笑った。

「訳がわからないだろう?君が思う通り、僕だって君を愛していないし、愛するつもりもない」

「僕が生涯で愛するのは菖蒲ただ一人だ」その言葉に鈴蘭は少なからず傷ついた。わかっていたことを突きつけられ、まるで針で刺すように何度も何度も、善意も悪意も無くただ作業をこなすように傷つけられる。それでも表情に出ないのは、それほど鈴蘭の生活が幸せとは程遠いものだったからだろう。

「私は十吉さんを愛しています。けれど、十吉さんにその気がないことも重々承知しています。だからこそ不思議で不安なのです。どうして私にこだわるのですか?」

 もし、姉と重ねていると言うのなら、十吉の未来のためにも絶対に断らなければと胸に誓って尋ねる。口にしているのは自分なのに、その刃が自分に突き刺さるのは本当におかしな話だ。

「死の間際にね、言ったんだ。菖蒲が」

 鈴蘭から視線を逸らして、鏡台に大切に置かれた髪飾りを見る十吉。その瞳に光はなく死人でなくとも生きているのかわからないほど熱を持たない横顔に鈴蘭は一抹の不安を覚える。

「彼女は順々に言った。母と父にはすまないと、弟にはもっと遊んでやりたかったと、僕には……僕には、一緒になれないことが口惜しい、受け入れ難いと、それでも愛していると、いつかこの悪夢が終わったら、今度こそ一緒になろうと、そして……」

 言い方に力が篭り徐々に熱を帯びていく十吉だったが、突然失速したかと思うと突然鈴蘭に顔を向ける。それは思わず息を呑むほど、背筋に冷たい何かが這うような美しさだった。

 一拍置いて、再び口を開く。

「そして、最後に君の名前を出したんだよ、鈴蘭」

「え?」

「彼女は!その最後の時に、目の前にいる僕ではなくお前の事を思った!でもそれは、決して姉としての愛に溢れたものなんかじゃない。それは僕だってわかっている、それでも……だとしても僕よりお前を最後に選んだ事が苦しかった」

 鈴蘭の不用意な反応に十吉の発言はエスカレートしていく。鈴蘭が慌てて口を噤むと、十吉はふっと笑みを浮かべた。

「菖蒲はね、君と結婚しろと言ったんだ」

「……」

「僕は言った、ふざけるな僕は君以外と結婚するつもりなどない、と」

「そしたら彼女は……まるで病に侵されているなんて信じられないほど自由な女の顔でこう言った“鈴蘭をあの籠から出して”とね」

「……僕は君と一緒になる気なんて毛頭ない。けれど菖蒲の願いだったから、君を選んでやるんだ。ここから救い出してやるのだから悪い話じゃ無いだろう?」

 一通り話し終えると、十吉は鏡台に手をついて鈴蘭の方を見た。そして、髪飾りを手に取る。

「こんな安物より良いものをくれてやる。だから僕のところに来い、僕が死ぬその日までこの体に触れることは許さないがこんな部屋より立派なものは与えてやるよ」

 そう言った十吉の顔は青白かった。

 鈴蘭は気がついていた、十吉から仄かに香る酒の匂い、紫色の目元、定まっていない視線、乱暴な口調——彼は壊れてしまっていると言うことを。

「……わかりました。貴方様が私を捨てるその日まであなたの元におります。式は最低限で、私の部屋も豪華なものは要りません、雨風が凌げれば良いのです。食事は、そうですね一年に一度、あの日三人で食べたオムレツと言うものを食べたいです。それ以外は一日一杯の玄米があれば生きて行けます。ですから、もうこれ以上ご自身を傷つけないで下さい。お願いします。私が愛する貴方を壊さないでください。姉様が愛した貴方を殺さないでください。お願いします」

 深く頭を下げた。願うのではなく、乞うように頭を下げた。

 十吉は「お前は与えられるものを享受すれば良い、与えられたものだけを、な」と言い残すと鈴蘭の部屋を出ていく。一人残された鈴蘭は胸を抑えてへたり込む。そして、もういない姉にささやかな祈りを捧げた。

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