鈴蘭
けれど、主役であるはずの鈴蘭の顔は暗い。
今袖を通している振袖の白無垢は鈴蘭が着るには少し上品で、もちろん普通より大人びている鈴蘭でもどこか着られていた。
要は、この衣装は鈴蘭のためのものではなく
これは自分の結婚式ではない、鈴蘭の胸に鉛が沈澱していく。それでも決して顔には出さなかった。出せなかった。隣にいる十吉も二人になると顔から表情が抜け落ちる。
「久しぶりだなあ十吉」
そこに不躾な声が飛んできた。十吉は振り返ると嬉しそうに微笑む。その顔を見て鈴蘭の心は少し軽くなった。
「ほんとうだぞ
「ようやくな……それにしてもそれが例の妹か?」
要と呼ばれた男が鈴蘭に向ける視線は酷く冷たかった。鈴蘭は視線を伏せたまま丁寧に頭を下げる。値踏みするような視線が痛い。この人は姉様を知っているんだろうかと、鈴蘭はある種納得をした。
「鈴蘭、こちらは
「そうなのですね。鈴蘭と申します。十吉さんがお世話になっております」
「俺はてっきり菖蒲さんと結婚すると思っていたからなあ……彼女のことは残念だが、その後釜に下品にも転がり込むような女といてお前が幸せになれるとは思わないが……せいぜい頑張れ」
隠す気のない悪意に晒されても鈴蘭は表情を崩すことなく頭を下げるだけ。その下でどれほど傷ついていても周りにそれを気取られる事はない。十吉もそんな鈴蘭を心配してやることもない。鈴蘭はとっくに諦めていた。
「ああ、そうそう」
要は足を止めて振り返る。
「その衣装、あんたに全く似合ってないな」
そんな事鈴蘭はわかっていた。だと言うのに何故だろう。人に指摘された途端苦しくてたまらない。泣き出しはしなくても息が詰まる。少し浅くなる呼吸に十吉は気付かぬふりをした。
十吉二十三、鈴蘭十七の時の出来事だった。
神前式の写真を手に鈴蘭は今すぐにでも叩きつけたい衝動に駆られた。こんなもの何になると言うのだろう。与えられた部屋は広くて日差しが心地よい部屋。ベッドはとても大きく、部屋のために設えた鏡台は可愛い菖蒲の装飾がされている。箪笥には高価な反物が綺麗に並び、鈴蘭は自分で持ってきた着物を抱きしめた。
その部屋というのは夫婦の寝室だった。けれども同じベッドの中で触れ合うことはない。そう言う間柄でもない。義務としてそこにいるだけの二人だ。寝付けなかった鈴蘭は明け方一人で起きだすと持ってきた着物を着て厨房に移動する。朝餉の支度を始めるとやがて年老いた女中が何事かと飛んできた。
「イネさん、でしたよね。お借りしてます」
「なにを勝手なことをしているんです!」
一度頭を下げるとくるりと向き直って手際よく料理をする鈴蘭にイネは目を白黒させながら出来上がるのを眺めていた。
「あの、イネさんの分も作ったのでよかったら召し上がってくれませんか」
「そう言う問題じゃありません!これは私たち女中の仕事です、勝手をしないでください!」
「……でも、わざわざ私の分を作るなんて面倒でしょう?あ、安心してください。薪の補充もしますし、きちんと綺麗にして置いておきますから」
鈴蘭の言葉とイネの言葉の齟齬にイネは口を閉じた。良いところのお嬢様で、心優しい菖蒲様の後釜に座る腹黒い妹、そう女中の間では話題になっていた。そんな彼女が目の前で今、なぜか自分たちの仕事を奪っている。けれど、何と言うか、なぜかそれが悪いことではなくそれ以上にもっと根深い何かがあるように思えてならない。
「お口に合えば良いのですが」
そう恥じらう姿は決して噂のような娘に思えなかった。
「お待ちください、奥様と女中が卓を共にするなどあってはなりません!」
「……ですが、もうイネさんの分は作ってしまいました。冷めてしまっては勿体無いですよ。それに、私は奥様と呼ばれるような存在ではありません」
普通の人には無表情に見える鈴蘭の顔も長年さまざまな人を見てきたイネには感情が見て取れた。悲しげに揺れる瞳にイネは鈴蘭の事が気になって、言われるままに共に食事を始めた。
「あら美味しい」
「本当ですか!……よかった」
わずかに上がった口角にイネは笑みをこぼす。それと同時に今後この屋敷で悪女として扱われる鈴蘭の未来を思って加担したことを恥じた。
「基本的には私は部屋から出ないので心配しないでくださいね」
食事が済んでお茶を啜りながら鈴蘭は言った。
「それはどうしてですか?」
「……歓迎されていないでしょう?」
イネは気まずくなってお茶を啜る。
「大丈夫です。実家から婚家に変わっただけですから」
鈴蘭の言葉に首を傾げるイネだったが、鈴蘭が何かに気づいたように立ち上がるとさっさと湯呑を綺麗にして「失礼します」と頭を下げて行ってしまうものだから聞けないままそれを見送った。
「悪い子じゃないけど変な子ね」
イネが呟くと廊下の方から女中の子達がやってきた。
「あらイネさん今日は早かったんですね」
「ええ、ちょっと」
「はー、これから旦那様とあの奥様の朝餉作りか……」
ぼやく女中達にイネは「ちょっと」と声をかける。
「奥様はもう頂いたから旦那様の分だけで大丈夫よ」
そう答えるとイネはまた茶を啜った。
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