鈴蘭

 結婚をして一週間。鈴蘭の生活に大きな変化は無い。朝は誰よりも早く起きて朝餉を作る。イネさんは物音を聞きつけてやってきては一緒に食べてくれた。

「誰かと食べるのって美味しいんですね」

 ぽつりとつぶやいた鈴蘭の言葉にイネは仕える相手だと言うのを忘れて頭を撫でる。分厚くて柔らかい手の感触にびっくりしてイネを見る鈴蘭。その柔らかな温もりは自分が求めていたもののような気がして凍った心の端が溶けたような心地がした。目を丸くする鈴蘭にイネは「私でよろしければいつでも食べましょう」と微笑みかけた。

 十吉は朝姿を消す鈴蘭に違和感すら覚えぬほど関心を持たなかった。それを寂しいと思う気持ちと、どこか安心してしまう気持ちに鈴蘭自身絶望した。彼からの愛を求められない人間だと自分で決めつけていた。もちろん、その兆しがない中でそれを求める方が辛いものだが、鈴蘭のように諦めるのが染みついた人間にとってはまた諦めてしまったという事実が耐えがたい。

「その程度……そう言う事ですものね」

 お米を口に運んで呟く。鈴蘭の言葉を逆の意味で捉えてしまったイネは幼き日の十吉を最初に叱った日を思い出す。思えばあの日から分け隔てなく優しく接していた十吉が、なぜこうも自分の妻をぞんざいに扱えるのか、イネには理解できなかった。菖蒲の後釜にまんまと座った事実はあれど避けるほどではないだろうに。それに、鈴蘭の話を聞く限り結婚について前向きだったのはどう考えても十吉の方だ。イネも鈴蘭と同じようにお米を口に運ぶと急いで十吉の元へ向かった。


「二人で食事をしていた?……そう言えば彼女は朝食の時間にはいつもいなかったね。なるほど」

 早口で納得したように相槌を打つと、書類に向き直る十吉。それは暗にイネに出ていくよう促すための角が立たないパフォーマンス。イネもそれにはすぐに気づいたが、その場を動こうとはしない。いつもなら空気を読んで出ていくイネがいつまでも居座っていることに十吉は唇を尖らせた。

「まだ話が?」

 尚も聞く気は無いようで書類に目を滑らせながら耳だけ傾ける十吉にイネは「奥様の事です」と言って十吉のもとに歩み寄る。

「いい加減にしてくれ、見ての通り僕は忙しいんだ」

「十吉様は以前、藍色の判の場合少しくらい遅らせても問題ないと仰っていたはずですが?」

 ぴしゃりと言い放つイネに頭を抱える十吉だったがそのうち不機嫌そうな顔はやめて笑い出した。それが十吉なりの気持ちの切り替え方だと知ってるイネはストレスを与えすぎてしまったかと一瞬躊躇した。

“誰かと食べるのって美味しいんですね”

 その言葉を口にした時の鈴蘭がよぎる。あの時の彼女は言葉通りの心がこもっていた。だからこそ、それまでの鈴蘭の暮らしに不安になったのだ。イネも面識のある菖蒲は料理とは無縁な白魚のような手をしていたし、よく家族との話題も飛び出してきた。けれど、鈴蘭の話はほとんど聞いたことが無い。はじめは気にも留めていなかったが、いざ鈴蘭を前にした時それがあまりにも不自然に思えてイネの気持ちは止まらなかった。

「一体君と言う人間がどうして彼女にそこまで肩入れするんだい?」

 十吉の問いかけにイネは言葉を詰まらせた。同情と言えばそうなのだが、それだとあまりにも安っぽく聞こえて本意では無い気がした。

「……純粋で危ういから、でしょうか」

「ふうん?」

「十吉様や菖蒲様はお優しいけれど強かでございます。けれど奥様は……鈴蘭様はどこまでもか弱く、けれどそうあることを許されなかった方のように思うのです。私だけでも味方でいなければ、そう思わせる何かがございます」

 いっそ鈴蘭の方が強かではないか。そう言いかけて十吉は口を閉ざした。

「イネがそこまで言うのなら、もう少し鈴蘭を気にかけるとしよう。だから今日のところはもう行きなさい」

「よろしくお願いいたします」

 深々と、これ見よがしに頭を下げるイネに辟易しつつそれを見送ると、十吉は鈴蘭の事を考えた。

 鈴蘭の事は厄介な置き土産と思っていたが、なかなかどうして癇に障る女だった。愛する菖蒲を失い傷つく僕に寄り添うことなどせず、ただ苦しみに身を置き、何も求めず命をぞんざいに扱う。そんな女をどうしたら愛せようか。彼女の僕を見る瞳はいつだって僕を狂わせる。

 十吉は記憶の海に落ちた。


 初めて見た彼女は僕が姉の婚約者だと言うのにサクラの花弁のように笑った。それがあまりにも純粋で真っすぐなものだから、僕は怖くなった。菖蒲を愛する僕にどうしてそんな視線をと、煙たがるように僕は鈴蘭を冷たくあしらうことにしたのだ。

 菖蒲はそんな僕を見て、その日のうちにこんなことを言ってきた。

「お父様のような目移り、私は許しませんからね」

「しないさ、そんな事」

 彼女を安心させるように抱きしめた。

 それ以来時折顔を合わせるたびに菖蒲からは聞きたくもない鈴蘭の話を聞かされた。


「あの子は教えずとも何でもできてしまうの。私を嘲るように。気味が悪いわ」


「この間頂いた髪飾りがあったでしょう?あの子、あれを見て私にくれとせがむのよ」


「……以前貴方があげた髪飾りを、あの子はこれ見よがしに私の前でつけるの。もうこんな事はやめてくださいね」


 会うたびに繰り返される鈴蘭への恨み節は目の前にいる鈴蘭の姿とはチグハグで、正直、僕は菖蒲と言う女が分からなくなっていた。


「ねえ十吉さん」


 最後の日、彼女は僕を見て弱弱し気にその唇を動かした。

 その猫なで声で、僕の皮膚と言う皮膚が粟立つ。この声は、そう決まって鈴蘭の話をするときの声だ。


「鈴蘭と結婚してくださいましね」


 そう言って笑った菖蒲の顔はどこまでも美しかった。

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