鈴蘭

 少し遡って、安藤がお茶を頼みにきた頃、鈴蘭はイネの帰りが遅い事が気になっていた。そこに安藤がお茶を頼みにきたものだからこれは長くなるかもと、こっそりとイネが十吉の所にいると聞き出した。

「安藤さんも素敵よね」

 突然隣からうっとりとした声が聞こえてきて目を向ければ、頬を染めた春代が廊下の向こうに消えて行った安藤の背中をまだ見つめていた。

「あら、少し前までは旦那様の話ばーっかりだったのに!」

「良いでしょ!思春期の女の子は恋する乙女なの!それに妻のいる男なんて無し無し!それもこおんなに素敵な奥様と比較されちゃあ堪らないわよ」

「こら!なんて話をしてるんだい!奥様の前で……」

「あら、良いのよ。十吉さんは素敵な方だもの。それに、私が言えたことではないわ……」

 鈴蘭の言葉に部屋の中が凍りつく。この場にいる三人は今でこそ鈴蘭と仲が良いが、鈴蘭が来たばかりの頃は菖蒲との事もあり随分と否定的な噂を囁いた。

 鈴蘭も口にしてから言うべきではなかったと気付いて「あら、私は気にしてないわ」と墓穴を掘る。実家にいた頃はこんな風に言葉を交わす相手がいなかったものだからつい皮肉屋な言い回しばかりが出てしまう。

「あ、私イネさんを探してくるわね!」

 鈴蘭はそう言い残して慌ててその台所から出て行った。後に残された三人は、鈴蘭の背中を見て「本当に、幸せになってもらいたいものだね」「ですね」「はい」と口々につぶやいた。


 鈴蘭が十吉のところに向かうと、扉の前でこそこそと聞き耳を立てている安藤を見つけた。安藤の方も鈴蘭に気がついたらしく、一瞬バツが悪そうに顔を顰めると愛想笑いを浮かべて場所を譲るように一歩退がった。

 その様子がおかしくて鈴蘭は声を殺して笑うと、そこに十吉の声が微かに届いた。

 細かい言葉は聞き取れなかったものの、交互に聞こえるイネと十吉の声はただならぬ雰囲気で、鈴蘭も扉に近寄るとそっと中の声に耳を澄ませた。

「では欺いておられるのはご自身ですか?」

 イネの言葉の意味がわからず、鈴蘭と安藤は顔を見合わせて首を傾げる。

「何が言いたい……!」

 その声は耳をすませなくとも二人の耳にまっすぐ飛び込んできた。それまでの声よりもずっと感情をむき出しにした十吉の声に鈴蘭と安藤は再び扉の向こうに意識を向ける。けれども鈴蘭は直ぐに姿勢を正すと来た道を戻ろうとする。

「奥様、どちらへ?」

 安藤の呼び止めに鈴蘭は「これ以上聞いてもよくないわ」と再び歩き出した。

「待ってください!」

 安藤はなぜか鈴蘭の後を追いかける。けれど鈴蘭んの頭の中には二人の会話がぐるぐるとめぐり、安藤の事など気にも留めずに、厨房ではなく、その手前の居間に入って頭の中を整理しようと一息ついた。

「奥様!」

「きゃっ……え、安藤さん?如何してあなたが?」

「酷いなあ……奥様の様子がおかしいからついてきたんですよ?呼びかけても何も答えないし」

「あら、それは失礼したわね。でも、別に貴方が気にするようなことじゃないわ」

 鈴蘭にとってこの安藤と言う青年の事は興味の外にあった。

 すれ違えば誰もが振り返る切れ長の瞳に薄い唇も、黒く艶やかな髪も、どれも十吉に比べれば見劣りする、と鈴蘭は無意識に思っていたのだ。だからこそ、安藤は鈴蘭に興味がわいた。

 この家に来てからもやはり女中や近所の娘たちは皆安藤に猫なで声ですり寄ってきた。それこそ旦那がいようとかまうこともなく、女の目で見てきた。しかし、鈴蘭だけは違った。もちろん十吉は財を成し見た目も自分に引けを取らないほどの色男だったが、それでもこれまでの経験上ここまで自分に興味を示さない娘などいなかった。

「奥様は旦那様に好かれていないと知っているんですよね?」

 不躾な質問に、鈴蘭は感情を無くした虚ろな目で「だからなんだというの?」と静かに答えた。その姿に安藤は胸の内で言いようのない高揚感が芽生える。

 鈴蘭もまた、美人の部類の顔立ちをしていた。今までは家族から虐げられてきたこともあり、ろくに飯も食えずに痩せこけていたが、この家に来てからしばらく経つ今はふっくらと女性らしい体になりつつある。そうなって見ると、なるほどあの菖蒲の妹だと周囲も鈴蘭の美しさに気づき始めていた。ただ一人、十吉の目にだけはあの日と変わらない少女が映っているが。

「奥様はお子が欲しくないんですか?」

 獲物を狙う蛇のように安藤の目が光る。

「……十吉様との子ならね。でもそれは叶わないからいらないわ」

 安藤の思惑を悟り、鈴蘭もその眼光鋭く安藤を見る。安藤は自然と上がる口角を隠そうともせずに「奥様はやはりお美しいですね。先に会ったのが僕だったら良かったのに」と無礼を重ねる。そんな安藤に鈴蘭は溜息を一つ零した。

「あの頃の私なんて、貴方はきっと見向きもしないでしょうね」

 嘲笑うような笑みに隠れた危うさに、安藤は胸の内が強く疼いた。それは初めての恋だった。

 安藤は本能のままに鈴蘭の手首を掴み、その美しい瞳の奥を覗き込みたいと言う好奇心に駆られて顔を近づける。

「離して」「どきなさい!」と鈴蘭が抵抗するも、健康的な男児に敵うわけもなく、そのまま組み敷かれる。安藤は掴んだ真っ白な手の細さ、脆さに視線とは裏腹なか弱さを感じ、もっと鈴蘭と言う人物について暴きたいと衝動に駆られる。

 鈴蘭がもし他の娘たちのように自分に溺れたらどうだろう、同じように自分は熱を失うのだろうか、それとも、枯れることのない探求心が次々に襲ってきて、彼女無しでは居られなくなるのだろうか――その瞬間、乾いた音を立てて安藤の頬が赤く染まった。安藤はその衝撃で一気に現実へと戻り、慌てて鈴蘭から離れる。

「申し訳ございませんでした!」

 必死で頭を下げる安藤の背中を見て、十吉が嬉しそうに安藤について語る姿を思い出し、鈴蘭も未遂だからと安藤を許すことにした。

「早く出て行ってちょうだい」

「失礼します」

 慌てて部屋から出ていく安藤を見送って鈴蘭は痛む手首を抑えた。

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