鈴蘭
「遅くなってごめんなさい」
慌てて厨房に向かうと、そこには秋音の他にも
「奥様?もう大丈夫なのですか?」
春代も千草同様堪えきれずと言ったふうに頬を綻ばせて尋ねてくる。その後ろで秋音とイネはやれやれと呆れたようにしながらも、どこか期待のこもった眼差しで鈴蘭を見ていた。
「ええ、ゆっくり休んだから大丈夫よ。それより秋音さんごめんなさいね。準備もあるのに遅くなってしまって……」
四人の質問の意図など知る由もない鈴蘭はあっけらかんと答える。その言葉に千草と春代は顔を見合わせて喜び、秋音はそんな二人をたしなめる。しかしイネだけは鈴蘭の様子に違和感を覚えた。
「奥様、昨夜は何かありましたか?」
イネの直球の質問に、三人は「ちょっとイネさん!」と声を上げる。興味はあっても恥じらいはあるのかイネの行動に慌てる三人。けれど、鈴蘭はその意図など知らず頬を染めて答えた。
「十吉さんが、ここが私の居場所だって言ってくださったの……っ」
鈴蘭の言葉に今度は秋音が違和感を覚えたが、若い二人は再び盛り上がる。
「奥様、ちょっと良いですか?」
「はい、なんでしょう?」
「……旦那様としましたか?」
「何をですか?」
とうとう千草と春代も鈴蘭の返答に違和感を持った。まるで生娘のような反応はどう考えても昨晩自分達が期待したような事実などなかった事を示している。
「だから言ったじゃない!
「何よ、言い出したのはそっちでしょ?珍しく旦那様が顔赤くして出てきたって!」
「でも貴方だって奥様が昼過ぎになっても出てこないのはきっとそういう事だって言ったじゃない!」
言い争いを始める二人に秋音とイネはこめかみを抑える。ただ一人鈴蘭は呆然と二人を眺めた。そして、その売り言葉と買い言葉から徐々に状況を把握して、終いには耳まで真っ赤になって「秋音さん、そろそろ始めましょう」と必死に話題を逸らした。
そんな鈴蘭にまたしてもイネはこのままではいけないと目を光らせる。
「奥様、イネは少々席をはずします」
「あ、ええ……」
イネはそう言うと、ある場所に向かってズンズンと歩き出した。
同じ頃、十吉は執務室で悪寒を感じて震えた。その様子に書生の安藤は「どうかしましたか?」と手を止める。
「いや、何か恐ろしいことが起きるような気がする……安藤君、すまないが茶を用意してくれないか。君の分も併せて三つばかし湯呑みを頼む」
「?……はい」
安藤が厨房へ向かう途中鬼気迫る表情のイネとすれ違う。その余りの迫力に安藤は「ヒッ」と思わず声に出すも、イネの耳には届いていないようだった。
イネの背中を見送って、なるほどと納得すると安藤は二人分のお茶を求めて厨房へ向かう足を早めた。
「旦那様、鈴蘭様の事で、このイネお話しがございます」
安藤が持ってきた茶を啜りイネは口を開いた。十吉はお茶を運ぶと「それではこれで」と言って颯爽と逃げて行った安藤を恨めしく思いながらも、イネの顔を見て「これでは安藤も気が重いか」と大人しく湯呑みを持った。
「イネ、君の言いたいことはわかっているつもりだ。だが僕にとって鈴蘭は菖蒲の妹なんだ。こればっかりは君に何と言われようと曲げるつもりはない」
「ほっほっほ、ちゃんちゃらおかしいですね。このイネの目を欺けるとお思いですか?坊ちゃん」
十吉はイネの口調に露骨に嫌そうな顔をした。
普段は大和撫子のお手本のように三歩下がって大人しくついてくるイネだが一度スイッチが入ると人が変わったように指導を始めるのだ。特に、十吉の事を“坊ちゃん”と呼ぶ時は昔十吉の世話係をしていた頃の精神に戻って躾を始めるものだから、この歳になるのに十吉にとって手のつけられない相手だった。
「イネ、僕は決して君を欺いてなどいないよ。僕はただ……」
「では欺いておられるのはご自身ですか?」
全てを見透かすようなイネの瞳に十吉は言葉を詰まらせる。そして、視線を外して「何が言いたいと」吠える。
「旦那様にとって、恋とは何でしょう?愛とは、何でしょう?」
「……恋とは思う気持ち、愛とは慮る事だ。それが何だと言うんだ」
「旦那様は確かに菖蒲様を好いておられた。けれど、その感情の波は菖蒲様と同等でしたか?少なくとも、イネの目にはあまりにも一方的だったように思います」
「……君も菖蒲を冷たい女だと思うか?」
「私が話しているのは旦那様の事です‼︎」
ぴしゃりと言い捨てられ十吉は思わず背筋を伸ばした。
——自分ではなく、菖蒲の気持ちの方が大きかった?——そんなはずはない。
十吉は固く口を結んだ。
十吉は菖蒲のために出来うる限りのことをした。それは誰の目に見ても明らかだ。けれど、だと言うのならイネは何を思ってこんな事を言ったのだろうか。
——そういえば、イネは鈴蘭と仲直りしたんだよな。
十吉はふっと息を漏らすように小さく笑うと、イネの目をまっすぐに見る。
「たとえイネが鈴蘭にどれほど肩入れしても、僕の考えは変わらない。僕は菖蒲以外との子供は要らないよ」
イネの耳に、その言葉はどこか自分に言い聞かせているように聞こえた。
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