鈴蘭
「久しぶりね、十吉」
「まさか君が一人で来るとは思わなかった」
「あら、手紙を書いたじゃない」
十吉の書き物机に腰掛けると女は食えない顔で笑った。十吉は相変わらずだと息を吐く。女はそんな姿さえ笑って見つめる。
彼女の名前は詩音。十吉とは共通の友人を介して知り合い、良き友として過ごしている。いつも家業の手伝いに追われている彼女はなかなか捕まらず、十吉と鈴蘭の結婚式でさえ来なかった。そんな彼女がしばらく経った今になってなぜ来たのかと十吉は出方を伺うように睨んだ。
「そんな怖い顔するもんじゃないわ。私はただ貴方の可愛い奥様を見にきたのよ」
「残念ながら妻は今人に会える状態じゃ無い」
十吉は観念したように息を吐いた。あの日変わってしまった鈴蘭を十吉は誰にも合わせていない。たとえ旧知の中といえどそれはできない。それにこの詩音という女は特に——。
——コンコン。
その時十吉の執務室の扉が叩かれた。
「誰だ」
「私です」
気の張った声を掛けると驚いたことにそれは鈴蘭だった。久しぶりに聞く妻の声だった。
十吉は今の状況も考えず慌てて「入れ」と声を掛ける。彼女が元に戻ったのだと信じたかった。
「まあ、奥様?」
けれど、すぐそばにいた詩音を思い出して「入るな‼︎」と叫ぶ。結局、開き始めたドアを止めるには遅かった。
鈴蘭は中を見て、詩音を見て、胸を撫で下ろすと微笑みを浮かべた。
「やはり、菖蒲姉様は生きていたのね」
詩音は菖蒲にそっくりだった。
——旧姓三船詩音。三船屋の長女として生まれ、持ち前の美貌と天性の人の良さで家族や親戚隣近所のみならず、三船屋の太客である国のお偉方からも気に入られている。
あの日、鈴蘭が見た背中は詩音だった。妹である鈴蘭が見間違えるほど菖蒲に似た詩音だが、性格はまるっきり違う。菖蒲は日本美人らしい奥ゆかしい性格だったが、詩音は活発で未来の女性像そのものといった風で、だからこそ十吉は二人が似てると言う話を聞くたびに首を横に振っていた。
けれど、心が磨耗し夢に取り憑かれた鈴蘭には性格など瑣末な問題と思えた。鈴蘭は詩音の手を取ると「おかえりなさい、姉様」と笑う。戸惑う詩音の視線を受けて十吉は鈴蘭を「やめないか」と叱る。けれど鈴蘭は昔の調子に戻って「あら、十吉さんだって嬉しいでしょう?やっと愛するお姉様が帰ってきたんですもの」
「彼女は菖蒲ではない。彼女は詩音だ。三船屋の娘だ。あの日君が見たのは菖蒲ではなく詩音なんだ。これではっきりしただろう?」
「だから元に戻ってくれ」
そう言いたげな十吉に、鈴蘭は顔を背けた。そして詩音の手を引いて屋敷の中を案内する。
「旦那様、奥様が!」
飛び込んできたイネは異様なほどの笑みを浮かべる鈴蘭と戸惑う詩音、そして二人を止めようとする十吉を見て全てを悟った。
「鈴蘭様、その方は十吉様のお客人ですよ。無礼な振る舞いはおやめ下さい」
「何を言っているの?イネ。彼女は私の姉なのよ?姉妹がこうしていたっておかしな事はないわ」
「その方は詩音様です。菖蒲様ではございません」
「貴方まで何を言うの⁈……そうだ、姉様からも言ってちょうだい!そしたら二人も信じてくれるわ」
泣きそうなまでに必死な鈴蘭を見て詩音は戸惑う。そして、鈴蘭の手に自分の手を重ねると話すように力を込めた。
「ごめんなさい。私は菖蒲さんでは無いわ。貴方の事情はわからないけど……菖蒲さんは亡くなったのよ」
「そんな……嘘よ……みんなで私を騙して……嘘よ‼︎」
鈴蘭は顔を覆ったまま飛び出していく。
「鈴蘭!」
後を追いかけて十吉も飛び出して行った。
残された詩音はイネにお茶を頼んだ。
「彼女が鈴蘭さんね」
「はい」
差し出されたお茶を口に含んで詩音はイネに声を掛ける。
二人が出て行った扉を見つめながら詩音は菖蒲の事を思い出していた。二人に直接的な接点は無い。ただある人がいつも楽しそうにその名を呼ぶから、会ったこともない菖蒲を詩音は一方的に知っていた。
「菖蒲さんて存外可愛らしい方なのね」
「はい?」
「……いつももっと怖い人だと思っていたの。だけど、純粋な灰色に染まっていて……十吉の事心の底から愛していたのね」
「でも、鈴蘭さんの事も愛していたのね」
詩音の言葉に面食らって顔を上げればいつの間にかこちらを見ていた詩音と目が合い微笑まれる。イネは「ええ」と返すと戻ってこない二人が向き合う事を願った。
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