鈴蘭

 安藤が十吉の部屋から出て行った頃、鈴蘭は一人窓の外を眺めていた。実家にいた頃と変わらぬ生きているのか死んでいるのかわからないような眼差しで、何を求めているのか、真意など掴めぬ赤子のように。

 あの日から鈴蘭はいつもこんな風に過ごしていた。イネはそのうち空を求めて飛び立ってしまうのではと気が気でなかったが、イネにできることなどなかった。

「鈴蘭様、おかゆです」

 部屋に閉じこもってから鈴蘭は食事らしい食事をしなくなった。そのせいか食が細り、実家にいた頃のように骨と皮だけの貧相な姿に戻ってしまっていた。

 初めの頃は母親のように食べるよう促していたイネも今ではしつこく言う事を諦めた。それよりも思いがけず鈴蘭の傷に触れ思い切った行動を取られないようにと綱渡りをするような心地でいつしか鈴蘭と過ごすようになっていた。

「それでは私はこれで」

 イネは一刻も早く立ち去りたいと言うように鈴蘭の方は見ないまま退出する。鈴蘭はイネへの罪悪感を胸にそれでも外を見るのをやめなかった。

「あっ」

 そう呟いたかと思うと鈴蘭は突然立ち上がり痩せこけた体を引き摺るように部屋から出る。すっかり筋肉の衰えた体では思うように進めないが、それでも壁傳になんとか十吉の部屋を目指す。萌える緑の向こう側、葉の隙間から僅かに見えたその姿は待ち焦がれていた人のものだった。


 ——鈴蘭自身、どうにもならない現実だと、とうに理解していた。それでも限界だった。

 姉様が生きているから仕方ないのだ、とそう思う方がずっと気が楽だった。それは姉様でなくとも、でも構わない。その一心で、鈴蘭はとうとう十吉の部屋の戸を叩いた。

 中に入ってみると、そこにいた女性は雰囲気こそ違うけれど菖蒲に生き写しだった。

 十吉さんが好きなのは彼女だ、だから私は選ばれないんだ、それは仕方のない事なんだ。

 そうでなければ、先の見えない洞窟を彷徨い歩くような日々に音を上げてもう休んでしまいたかった。

 けれど、彼女と十吉は違った。

 二人がそういう仲でない事はすぐに理解した。そうして気づけば、鈴蘭は与えられた部屋の中で蹲っていた。


「……鈴蘭?」

 様子を伺うように掛けられた声に鈴蘭はぴくりとも動かない。ただじっと動かず、顔も見せずに蹲る。十吉は部屋に入ると鈴蘭の近くで腰を下ろした。

「私は、僕は、君に話さなければならない事がある」

 凛とした声は静かな部屋に波動のように広がって溶けた。けれど、鈴蘭は身じろぎ一つしない。

「まず、僕は君に謝らねばなるまい。君をここに閉じ込めて、逃げることも許さずに、君を愛そうともしなかった。最低な夫だ」

「そんなこと……ないです」

 消え入りそうな声で鈴蘭は答えた。十吉は返事をもらえたことに幾分安堵して、努めて優しい声色で続けた。

「君が僕を好きだという事はずっと知っていた。僕が思うよりずっとその思いが強いのだと知ったのは結婚をしてからだが……。それでも僕が君を選ばなかったのは菖蒲の事があったからだ」

「……姉様が何か仰ったの?」

「それは違う!いや……確かに忘れないでと言ったが、これは僕自身の問題なんだ。菖蒲は関係無い」

 そこでようやく鈴蘭は顔を上げてゾッとするほど虚な目で十吉を見上げた。その目はどこか探っているような見透かすような雰囲気があった。

「僕は……いつしか君を愛するようになっていた」

「え?……」

 突然の告白に鈴蘭は目を丸くする。ようやく光の入った瞳は鈴蘭に命を吹き込んだようだった。

「僕は怖かった。君を思えば思うほど、菖蒲を裏切っているように感じたから。それでも、もう自分に嘘をついてはいけないと知った」

「……ふふっ、気を遣わなくて良いんですよ」

 鈴蘭は居住まいを正して十吉と向かい合うように正座をする。

「詩音さん、でしたか?彼女でなくとも本当は良いのです。ただ、私が愛されない理由が——」

 鈴蘭がいい終える前に、十吉は鈴蘭を抱きしめた。戸惑う鈴蘭の背に腕を回して、か弱い身体を傷つけぬようにと注意を払いながら、それでもしっかりと抱きしめた。

 初めは抵抗していた鈴蘭も人のぬるい体温に絆されていつしか声を上げて泣いていた。少女のように泣くその姿に、十吉は胸に棘が刺さる心地だった。それでも鈴蘭が泣き疲れて眠るまで、十吉は決して離れなかった。

 眠る鈴蘭を抱き上げて、その軽さにまた胸を痛める。そっとベッドに寝かせてやると十吉は起こさぬようにと静かに部屋から出る。

「……」

 そこには安藤がいた。彼は何も言わずに十吉を見つめると深く頭を下げる。

「仕事に戻れ」

 十吉はそれだけ言うと安藤の横を通り過ぎて執務室にもどった。

「私ったらとんでも無い時に来ちゃったかしら」

 戻るとお茶を飲み終えた詩音が帰り支度を済ませた頃だった。

「すまない」

「こちらこそだわ。また改めて来るわね。今度は夫と」

 そう言って微笑んだ詩音は左手の薬指がきらりと光った。キザなあいつらしいなと笑う十吉に詩音は満足げに微笑む。

「元気になったみたいでよかったわ」

「……あいつの差金か?」

「さあ、どうかしらね」

 いたずらっ子な笑みを浮かべると如月詩音は宇佐美邸を後にした。

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