鈴蘭

 十吉と要の言い争いが応接室に響く頃、鈴蘭はイネと共にデパートへ来ていた。実のところ、鈴蘭はデパートというものに足を運んだことは無かった。女学校時代は十吉との結婚を白紙にするために時間を費やしていたためろくに友人も作れず、かといって結婚後は十吉があれだったし、そもそも鈴蘭の中でデパートと言う場所が神聖なもののように感じられていたから、穢れた自分が入っていいところでは無いと無意識に敬遠していたのだ。けれど今日はいつも世話になっているイネに西洋料理をごちそうしたくて近くにあるデパートまで足を運んだ。

「まあ、広いのね」

 大きな吹き抜けにイネと共に圧倒される。外観から西洋風の建物だと思っていたが、中に入ったことは無く、まさかこれほどまでに美しいとは想像もつかなかった。

 迷いそうになりながらもイネと二人、なんとかお店を探し当て、鈴蘭は並んだ刺繍糸から目当てのものを探す。

「綺麗ね……」

 鈴蘭が手に取ったのは藍色の刺繍糸。それは十吉が着る着物の色だった。

「西洋では手巾ハンカチに刺繍をすると聞いたわ」

「まあ、それではこちらも買って鈴蘭の花を刺繍するのはいかがです?」

「……それは、あの人も喜ばないわ」

 イネの気遣いに鈴蘭は首を横に振った。その様子にイネは眉を顰める。鈴蘭がこの家に来てすぐの十吉の態度は確かに冷たかった。けれどそれ以上に鈴蘭が卑屈な事が気にかかる。

「奥様、少々お時間よろしいでしょうか」

「……ええ」

 要の事を思い出し、本来ならば帰らなければならない。けれど、逃げたくなるほど、要が自分に向ける視線が耐えられなかった。鈴蘭はイネと共に西洋料理店へ行くと、奥まった席を選んでイネの言葉を待った。

「差し出がましいことと理解しておりますが」

 前置きを入れたイネに鈴蘭も内容の見当がついて口を閉じた。鈴蘭は初めて見た時からイネと言う人間が純粋で真摯、責任感の強い人だと見抜いていた。だからこそ、自分と十吉の仲を取り持ってくれるだろう事も容易に想像がついていた。

「鈴蘭様が思うほど、十吉坊ちゃんは鈴蘭様の事を嫌ってはおりません」

 真っすぐな瞳に鈴蘭は笑いを漏らす。まるで釣りを楽しむように、思ったとおりに動く人間のなんと面白い事か。何と羨ましい事か。

「そうですね、イネさん。確かにあの人は私の事をわ」

 イネは鈴蘭の様子に決して自分に賛同したのでは無いと分かって口を噤んだ。それを見て、鈴蘭は更に声を出して笑う。

「あははっ、そう、そうなの。あの人はね嫌うなんて生易しい眼差しで私を見たことは無いわ」

 運ばれてきたクリームソーダを口に含むと鈴蘭は口角を上げた。

「あの人は私を憎んでいるんだもの」

 人間に傷つけられた野犬のようなギラついた眼差しをイネに向ける。イネはそんな鈴蘭の様子に息を呑むので精いっぱいだった。

「菖蒲姉様が生きていればせいぜい嫌うくらいだったのでしょうね……」

 ぽろっとこぼれた本音にイネは何も言えなかった。本当なら、今頃鈴蘭がどれほど真っすぐな少女かを確認し、彼女が今までどれほど暗く冷たい世界で生きてきたのか分かるはずだったのに、イネですら想像もつかないほどの闇を鈴蘭は抱えていた。

 呆然と固まるイネを見て鈴蘭は微笑む。

「イネさんになら、教えてあげようかしら」

 怪しく微笑む鈴蘭にイネは困惑しつつもその漆黒の瞳の奥にあるヴェールが剥がれる瞬間が気になって口を閉ざした。

「私があの家で疎まれていた理由を」


「でもさ、お前は気にならなかったのか?」

 すっかり落ち着いた十吉と要は向かい合っていつものように何でもない時間を過ごしていた。要は天井をしばし仰いでいたかと思うと、突然座りなおして先の発言を述べた。

 十吉は、一瞥もせずに、ティーカップの澄んだ紅茶を見つめて「なにを?」と返す。それが本心からなにを指しているのか分からないと言う意味なのか、はたまた答えは全て持っているが、要が何について探ろうとしているのか窺っているのか、要にはわからなかった。この友人の底が見えないのは今に始まったことではない。

 深く息を吐くと少し間をとって要はようやく二言目を口にした。

「お前の奥さんが何でそんな扱いを受けていたのか、さ」

 十吉は手を止めて真っすぐに要を見る。要は十吉のこの全てを見透かしたような目が気に入らなかった。けれど、菖蒲はこの瞳が好きだった。

「気にならなかったよ、僕が彼女に興味を示すことは菖蒲が望まないと思ったからね」

「そうか」

 相槌を打ってから要ははたと気づく。十吉の口ぶりはどうにも過去形だ。。考えすぎかとも思ったが、この気前のいい友人ならもう一押しすれば何か話してくれるかもしれない。

「本当に何も知らないのか?」

 食い下がる要に、十吉はカップを置いて座りなおした。

「知らないとはいっていないさ」

 その口と表情は話に乗ったにしては重かった。

「話してもいいんだが、決して口外はするなよ。それに、まだ確証は得られていないんだ」

「……やけに慎重だな」

「……まあな」

 十吉は目の前の軽薄だが口の堅い友人を見て、その口を開いた。


「鈴蘭は夫人の子供ではないかもしれないんだ」

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