鈴蘭

 鈴蘭が十吉と朝を共に済ませるようになって一月が経とうとしていた頃、二人の関係にも変化が見られた。十吉は食事の時だけは鈴蘭と必ず顔を合わせるようにしていたし、初めの頃はぎこちなかった会話も今では花を咲かせるくらいには打ち解けていた。

「今日はイネさんと刺繍糸を見に行くんです」

「そうか、僕の方は仕事が無いからね、久しぶりに本でも読むとしよう」

 また、こうした二人の変化が屋敷内に伝染していき鈴蘭への反発も落ち着いてきた。

「奥様が出かけるそうだから今日の夕餉は疲れを癒すものが良いかもね」

「それじゃあ梅なんてどうかしら?よく漬かっているし、旦那様にもあとで梅茶をお持ちしたらいいかも」

 鈴蘭をあれほど疎ましく思っていた人々もやがてその純粋さに理解を示していた。

 たとえ二人が男女の仲になることは無くとも、二人にとって心地の良い関係を構築できるようになっていた。

 そんな中で、訪問者が現れた。

「元気にしてたか?」

 それは、結婚式で鈴蘭を侮辱した如月要だった。彼は十吉の隣に立って出迎える鈴蘭を見て露骨に顔を顰めると、鈴蘭を無視して十吉に声を掛ける。

「ああ、僕も妻も変わりないよ。そっちは?」

 さらりと鈴蘭について触れる十吉の姿に、要は鈴蘭を睨みつけた。一体どうやって抱き込んだのかと言いたげな視線。結婚式での苦しかった時間を思い出し俯く鈴蘭を見て十吉はそっと肩を抱いた。

「あまり人の妻に熱烈な視線を向けるものじゃあない。それより久しぶりに会ったんだ、話を聞かせてくれないか」

 結婚式の時と違い鈴蘭を庇う姿勢を見せた十吉に面食らったものの、要は姿勢を正して要と共に応接間へと向かった。背後から要の視線を感じつつも鈴蘭は十吉の隣を歩く。

「すまない、彼の誤解は僕が解いておくから」

 そっと耳打ちされた言葉に、鈴蘭は小さく頷いた。


「それでは、私はお邪魔でしょうからこれで」

 応接間に着いてすぐ、鈴蘭は丁寧な所作で頭を下げると退出しようと扉に手を掛けた。けれど何を思ったのか要がそれを止めた。

「あの、えっと……」

 思わぬ行動に困惑する鈴蘭を見て白々しいと鼻で笑う要。

「今日は君にも話があって来たんだ。時間はあるだろ?」

 言葉こそ穏やかだが断定的で問い詰めるような言い方に鈴蘭は頭が真っ白になる。十吉より背の高い要に見下ろされ、敵意も相まって威圧感が襲った。それはまるで自分を叱る時の父のようだと、鈴蘭の呼吸が浅くなる。じわりと額に浮かぶ汗やからからと干上がる口中に鈴蘭は眩暈がした。

「鈴蘭はイネと出かけると聞いている。要件は帰ってからでも構わないだろう?」

 助け舟を出したのは十吉だった。ふわりと香る十吉の匂いと守るように割った入った背中が、鈴蘭の緊張した体を解していくようで鈴蘭は絞り出すように「失礼いたします」と告げると足早にその場から離れた。

「あ、おい!……どういうつもりだよ」

 応接間の椅子に座る要と向かい合うように腰を下ろすと十吉はすました顔でお茶を啜った。

「どうもこうもない、これ以上僕の妻を虐めるな」

「意味わかんねえ‼あの女は菖蒲を死に追いやった女だろ?姉の物を奪うために立場まで利用して……そんな性根の腐ったやつを妻だなんてお前……!」

「いいかげんにしろ、これ以上の彼女への侮辱はこの僕が許さないからな」

 十吉のあまりの変わりように要は理解不能だと叫ぶ。確かに今までさんざん鈴蘭の愚痴をこぼしていた十吉の事を思えば要の反応も当然だった。十吉もそれは理解している。それだけでは無い、要には鈴蘭を恨むだけの理由があった。

「お前は菖蒲の言葉に対して盲目すぎる」

 それは要の初恋が菖蒲だから。菖蒲が十吉を選んだことで二人が結ばれることは無かったが、十吉もその事を知っていた。菖蒲が生きていた頃はそんな自分の気持ちを押し殺して応援してくれる要に感謝していたが、徐々に菖蒲と言う人物を理解してきた十吉にとって要の純粋な気持ちは迷惑に他ならなかった。

「どういう意味だ?」

 当然要が食って掛かってくるのは予想の範囲内。時間をかけて説得するべきだと十吉は口を開く。

「鈴蘭に会う前、僕は菖蒲から鈴蘭がいかにわがままで菖蒲を振り回す妹なのかを聞かされていた」

「知ってるさ、俺もその場にいたんだからな」

 菖蒲の事を知っているのはお前だけではないと要は拗ねるように唇を尖らせる。

「しかしいざ会ってみると、ろくな教育も受けず、それどころかまともな環境すら与えられていない鈴蘭がいた」

「なにが言いたい」

「そのままだよ。お前は菖蒲の部屋に入ったことがあるだろう?」

「昔な」

「しかし鈴蘭の部屋は知らないはずだ」

「どうせわがまま放題のお嬢様の部屋なんてたかが知れてる。西洋の文化を下品に取り入れた部屋だろ」

「使用人の折檻部屋かと思うほど酷かったさ」

 売り言葉に買い言葉。しかしその末に十吉から出た言葉に要は言葉を飲み込んだ。嘘だと言いたいのに、事実を知っている十吉の言葉を否定できるだけの情報を自分は持っていないのだと。

「昼間なのに薄暗く、ろくに掃除もされていない。ベッドはお前が昔だめにした菖蒲のベッドを使っていた」

「あれって……ボロボロすぎて人が寝られるようなベッドじゃあ……」

「彼女は一般的な子女と比べて体が軽かったからな」

「けど、じゃあ菖蒲が嘘ついてたってのか?」

「僕が見た真実から言えばそうだな」

 淡々と答える十吉に要は何か反論しなければと口を開きそして後悔した。

「それじゃあお前はそれを分かった上であんな酷い結婚式を挙げたのか?」

 はじめはわがままで強欲な妹には相応しいの結婚式だと思った。けれど、もしあの鈴蘭と言う少女が家族から冷遇されていたのだとしたら、あの式は自分が思う以上に十代の少女にとって残酷な式だった。

「そうだよ」

 冷めた声で答える十吉に薄ら寒さを覚えて、十吉の目を見る。しかし十吉の顔はそれを後悔しているとでも言いたげに歪められていた。

「十吉、お前……」

「なに?」

 要はそっと言葉を飲み込んだ。気付いてしまった。菖蒲の真意に。そして、降参だと声を漏らして笑う。

「お前より俺の方が菖蒲については詳しいみたいだな」

 突然軟化した要の態度に十吉は目を丸くする。

「親友、今度こそ幸せになれよ」

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