鈴蘭

 穏やかな時間も終わりを告げ、家に帰ろうと個室から出る。前を歩く十吉の後について行くと、ふと耳に届いた誰かの足音が気になって鈴蘭は振り返った。

 そこに揺れるは黒檀の髪、パッチリとしていて切れ長の瞳、背格好も何もかもまるで——。

「……姉様?」

 総毛立つ。心臓が痛いくらいに音を立て、自分の名を呼ぶ十吉の声ですら鈴蘭の耳に届かなかった。

 姉は生きていたのだろうか。いや、そんなはずはない。確かに姉の入った棺は燃えていった。どんなに悔やんでも、彼女はもうこの世のどこにもいない。その筈なのに、奥の角を曲がっていった女は間違いなく菖蒲だった。妹である自分が見間違えるわけがないと必死に追いかける。けれど、角を曲がった先は座敷の扉が両側に付き、奥には上へ上がる階段があるなどして行き先はわからなかった。途端に周囲の歓談する声が鈴蘭の耳にも届き、追いかけてきた十吉に肩を掴まれ現実に引き戻された。

「鈴蘭!何をしている!」

 心配そうに寄った眉の皺に鈴蘭はこんな顔でも綺麗なんて罪な人ね、と思考を飛ばす。今自分の目の前で起こったことが信じられなかったのだ。これは夢なのではないか、と。


 この頃から鈴蘭は壊れ始めた。


 先日まで十吉と食事をしていたのに、宇佐美邸に来たばかりの頃と同じようにイネと食事をするようになった。女中の真似事もするようになった。八重香はそんな鈴蘭を見てこれ幸いにと十吉にアプローチするも、鈴蘭も流石にそれは止めに入るが、必要以上に十吉と接することを控えるようになっていった。

「イネ、鈴蘭はどうしてしまったんだろうな」

 十吉は書類をまとめてイネに問いかけた。イネもさっぱりわからず首を傾げる。

 あの日イネはカフェーまでは着いてきたがその先のことは何も知らない。だから推測を立てようにも情報が足りないのだ。十吉はと言えば、鈴蘭に気を取られその先にいた女に気付かなかった。鈴蘭はあの日「姉様だわ」とうわごとのように呟いていた。十吉は訳が分からず連れて帰ったが、鈴蘭の表情が七年前のあの日のようでそこに一抹の不安を覚える。


「奥様、どうなさったんです?」

 ある日の朝、食事を終えてお茶を啜りながらイネは鈴蘭を見つめた。

 イネは二人の時は“鈴蘭様”と呼ぶのに、この時だけは自然と奥様と言う言葉を使った。そうでもしないと不安に押しつぶされそうだったから。けれど晴れやかな表情で鈴蘭は言った。

「私は奥様では無いわ。それは姉様よ」

 肩の荷が降りたように、確かにそう言った。

 イネはこれはまずいと十吉の元に走る。

「鈴蘭、どうしてしまったんだ!」

 イネの報せを聞いてすぐ、十吉は鈴蘭の元に向かった。鈴蘭は諦めた表情で会釈する。

「どうしたんだい、鈴蘭」

 女中が腰掛けるための質素な木製の椅子に腰掛けると十吉は鈴蘭の目を見つめる。伏せられた目にもどかしさが募る。鈴蘭は何も答えなかった。ただ、十吉との関係を拒絶するように黙ったまま目を合わせようとしない。けれどその表情は苦しげだった。

「……鈴蘭、菖蒲はもうどこにもいないよ。そして、僕の妻は君なんだよ。この事実は絶対に揺るがない。僕が君の気持ちに応える事はなくても、それでも変わらないんだ」

「十吉様、その言い方はあまりにも……」

 口を挟もうとしたイネだったが、振り返った十吉の顔が泣きそうなほど歪められていてそれ以上言葉を続けられなかった。鈴蘭は「でも、姉様は生きていたわ」と呟くと十吉をまっすぐに見つめて微笑んだ。人形のような、作られた笑顔。

「……鈴蘭、君が見たのは菖蒲じゃない。菖蒲は死んだ。冷たくなった彼女を見ただろう?人形のように、蝋のように、まるで生きていたなど信じられないほどに死というものを突きつける菖蒲を」

 菖蒲との別れを思い出しているのか、十吉の目には涙が溜まる。鈴蘭は「あれは姉様ではないの、人形だったのよ、本当は生きているの、私は生贄なの」と呟くばかりでそれ以上会話にならなかった。

 十吉はその日から鈴蘭を部屋に閉じ込めるようになった。それは、気が触れた妻を晒したくないと言う見栄ではなく、壊れそうな鈴蘭が青空の向こうへ飛び立ってしまわぬようにと閉じ込める利己的な理由だった。

 イネは激しく抗議をしたが、十吉も冷静ではいられなかった。愛した女が、愛した姿を失って行く様を二度も見るのが耐えられなかったのだ。

 鈴蘭は毎日イネの持ってくる本を読んだ。十吉は時折出かけるとたくさんの贈り物を買って帰った。けれど、鈴蘭と顔を合わせるのが怖くて安藤に届けさせた。

 結婚して一年、二人の糸は消えた。


「鈴蘭様、旦那様はやめてさ僕に乗り換えちゃいなよ」

 百個目の贈り物を届けた日、安藤はたまらず鈴蘭を抱きしめた。日に日に壊れて行く姿を目の当たりにし胸が潰される思いをしたのは安藤も同じだった。鈴蘭は抵抗することもなく、けれど受け入れることもせず、静かに視界の向こうに広がる曇り空を眺めていた。

「鈴蘭様、僕本気だよ。本気で貴方のことが……」

「わかるわよ。だって、私も貴方と同じだから。同じだから……諦められることも知ってるの」

 安藤は鈴蘭から離れた。穏やかな微笑みを浮かべる鈴蘭は気が触れたことなど嘘のように安藤を見据える。安藤は糸を手繰り寄せるように必死で言葉を紡いだ。

「……僕、鈴蘭様が好きだよ」

「ええ」

「こんな気持ち初めてなんだ」

「わかるわ」

「どうしても応えてくれないの?」

「聞かなくてもわかるでしょう?」

「……だったら、幸せになってくれよ!」

「……ごめんなさい」

 幼子のように涙を流す安藤を鈴蘭は抱き寄せて背中をさすってやった。それは、自分が幼い頃姉にしてもらったこと。安藤は「お母さんみたいだね」と言って笑った。

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