顔を覗かせた悲しみ


 *


 たっぷり遊んだ後は、スマホの地図アプリを使って、ひとまず見慣れた場所まで戻ってきた。

 気づけば、家を出たときよりかなり日が高くなっている。

 疲れたね、一旦帰ってお昼にしようか、なんて彩と話しながら歩いていたら、ふと、後ろで立ち止まる気配がした。

 はしゃぎすぎて電池が切れたらしい。タカシさんは、行きとは打って変わって何も言わず、ただわたしたちの後ろをとぼとぼとついてくるばかりだった。

「タカシさん?」

 怪訝に思って振り返ると、彼は背中を丸めてしゃがみ込み、道沿いにあるファミレスの入口に立てかけられた看板をじーっと眺めている。

 歩み寄ってよく見れば、黒板調のそれには、客への誘い文句とともに、パスタやオムライスなどのイラストが白いチョークで簡易的に描かれていた。

「……食べたいんですか?」

 彩がちょっと呆れの滲んだ口調で尋ねると、彼ははっとして、あわてたようにぶんぶんと首を左右に振った――が、直後にお腹が情けなく鳴く。体は正直だ。

 スマホのデジタル時計は、午後一時半過ぎを示している。時間的にもちょうどいい。ここで済ませていこう。

 微笑ましさから苦笑しながらそう思ったとき、あることに気がついた。

「でもタカシさん、パジャマ……」

 そう。よく考えたらタカシさんはパジャマ姿なのだ。それも、いかにも入院患者が着ているような、青色で無地のしっかりしたもの。

 ジャージやスウェットならギリギリセーフかもしれないが、これで入店するのは、いくらなんでも悪目立ちしてしまいそうな気がする。しかも川遊びした後だし。

 けど、当然着替えなんて持っていないだろうし、このためだけにわざわざ買い揃えるのも手間だ。晴れているおかげでだいぶ乾いたとはいえ、わたしたちも多少濡れている。やっぱり一度帰ろうか。

 すると、わたしの呟きを聞いていた彩が「まったく、世話が焼けるな……」とため息交じりにこぼして、自分のマントをタカシさんに羽織らせた。

 そして、何か思案するようにしばらく目を閉じた後、軽快に指を鳴らすと――

 マントの裾がふわりと風に舞い、軽く土埃が立つと同時に、タカシさんの服装がぱっと様変わりする。

 けれどそれは見間違えたかと思うほど瞬間的な出来事で、すぐにパジャマ姿に戻り、マントもはためくことをやめた。

 当のタカシさんも、何が起こったのかまるで分からない、といった様子できょとんとしている。

「今、ほんの一瞬、服装が変わったように見えたでしょ?」

 目をぱちくりさせるわたしたちに、彩は言った。

「実際とは異なる格好に見えるように、『錯覚の魔法』をかけたんだ。彼がマントを着てる間は、魔力を持たない人間には、さっき一瞬チェンジした、まともな服装に見えてる。命を譲り渡すときに多少の魔力も分け与えてるから、本人は対象外だけどね」

 ん~……よく分からないけど、裸の王様の立場逆転バージョンみたいなものだろうか。本人じゃなくて、周りの人たちを騙す。けっして裸なわけではないのだけれど。

「枯葉色のセーターに、灰色のニットパンツ。完全に僕の独断と偏見で選んだけど、パジャマよりは断然マシだと思う」

 彩の言葉の「枯葉色」という部分だけを拾ったのか、「ワシは枯れておらんわい!」と不服そうに反応するタカシさん。

「はいはい。分かったから、このマント、店の中でもおとなしく着ててくださいね」

 むくれる彼を適当にあしらいながら、背中を押して店内へ促す彩。だんだん扱いに慣れてきたのか、あるいは諦めたのか。

 わたしもマントを脱いで片手に持ち、スマホをボトムスのポケットにしまいつつ、そんなふたりに続いて入店する。

 すぐさま店員が人数確認に来たが、パジャマ姿でマントを羽織っているタカシさんを目の当たりにしても、訝しげな様子も、努めて平然を装っている様子もない。

 どうやら、本当にそれなりの格好に見えているらしい。もはや、漫画やアニメの世界だ。

 ピーク時を過ぎたのか、客の姿はまばらだった。奥の窓際の席に通され、手前の入店口側に彩と私、向かいの壁側にタカシさんが陣取ってメニューを開く。

 タカシさんは、迷わずミートボールスパゲッティとポテトフライを注文。

 状況からしてお金を払うのはわたしたちなのに、ちゃっかり贅沢されてしまった。でもまぁ、高級料理店でもないんだし、多少は目を瞑ってあげよう。というか、おじいちゃんなのに注文内容がキッズだ。

 わたしと彩は、マルゲリータピザをふたりでシェアすることにした。

 最初に運ばれてきたのは、タカシさんのポテトフライと、各々の飲み物だった。

 テーブルに置かれるなり、無我夢中でポテトを貪り始めたタカシさんを見て、彩が「よく食べられるな……」と小声でこぼす。若干、引いているようなトーン。

「えっ、ポテト嫌いなの?」

 オレンジジュースをストローで掻き混ぜながら、驚いて尋ねると、彼女は「うーん……」と首をひねった。

「ポテトもそうといえばそうだけど、何よりマヨネーズが」

 見ると、ポテトフライの傍らには、別盛りの小さな容器に入ったケチャップとマヨネーズが添えられていた。もちろん、タカシさんは両方一緒にたっぷりつけている。じきに足りなくなりそうだ。

「モデル時代に控えてたら、なんとなく嫌いになっちゃったんだよね」

 彼女はそう言って、ホットのカフェラテに口をつけた。水に濡れて、体が冷えたのかもしれない。

「そっか……」

 しょせんテレビで聞きかじっただけだけれど、プロのモデルは、美貌や体型維持のために、厳しい食事制限だのトレーニングだのをしているらしい。彼女も例外ではなかったのだろう。

「もしかして、見るのも嫌だったり?」

「うん。正直それに近い感覚はあるかな。だからこういう店にもあんまり来ない。高カロリー、高脂質、高糖質なものは、いまだにちょっと敵視しちゃう。シェアしてくれて助かるよ」

 敵視、という表現がなんだかおかしくて、小さく笑ったとき、頼んでいた残りの品が一斉に運ばれてきた。

 スパゲティは、すでにポテトを平らげていたタカシさんの前へ置いてもらい、わたしと彩はピザを取り分ける。

 そんなわたしたちの向かい側で、一見不思議なマント姿のまま、口の周りをケチャップまみれにしてスパゲティを食べるタカシさんは、やっぱり子供みたいで憎めなくて。

 お腹いっぱいになったら、また散歩がてらゆっくり我が家に戻り、今日のところはそれで解散となった。


 その夜、

「サナ、といったか?」

「えっ? あっ、えっと、ハイ」

 暗がりの中で、突然タカシさんに名前を呼ばれて、面食らってしまう。

 今夜も昨日と同じく、毛布をかけた彼の隣に、わたしが布団を敷く形で寝ていた。

 もし、「ワシにもふかふかの布団を寄越せ!」なんて駄々をこねられたらどうしようかとヒヤヒヤしていたが、幸い、毛布一枚でおとなしくカーペットに横たわってくれている。

 ちなみに、明日になったらどうせ同じやり取りをする羽目になるだろうと踏んだ彩が、二日ぶんの寿命を譲り渡したらしく、明日になっても生身の人間のままだという。

 すると、彼は平然を装ったような口調で「そういえば」と切り出した。

「後悔とはちと違うかもしれんが、ひとつ、思い出したことがある。明日、ワシの気分次第では、教えてやらんこともない」

「本当ですか!?」

 予想外の言葉に、思わず声を弾ませると、

「気が向いたら、じゃぞ? なかなかの難題だから、覚悟しておれ」

 タカシさんはまた、からかうように言う。でもそれは、昨日とは違って、茶目っ気のあるもの。

 言わずもがな、彼の未練が「川遊びをしてミートボールスパゲティを食べること」でないのだけははっきりしている。

 彼に時間を割けるのは、泣いても笑っても明日が最後だけれど、きっと大丈夫だろう。

 ――ちょっとは打ち解けてくれたって、思っていいよね?

 心にぽっと灯ったあたたかさは、

「みんなしてワシを馬鹿にしとるのかと思っておったが、案外そうでもないのかもしれんの」

 ふいにやって来た切なさに、ちょっぴり影を潜める。

 振り返ってみると、今までの亡者は皆、最期に着ていた服をそのまま身につけているようだった。

 ダイチくんは、保育園のスモック。ハルカさんは、フェミニンなデート服。

 そしてわたしは今日の昼間、タカシさんの格好をあらためて見て、何気なく思った。

 いかにも入院患者が着ているようなパジャマだ、と。

 初めて会った夜、酔った彼をカーペットに寝転がしたとき、案外軽いんだな、とも。

 それに、

 ――年寄り扱いするでない。

 昨夜のこの一言にも、

 ――みんなしてワシを馬鹿にしとるのかと思っておったが、

 たった今の一言にも、

 ――後悔なんかないって言っとろうがっ!

 頑固な態度にも、妙な切実さを感じる。

 まるで、実際にそういった、表面的で断定的な扱いを受けてきたかのように。

 目を背けたってしかたがないのに、わたしは、顔を覗かせた悲しみに、そっと蓋をした。

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