嘘……でしょ?


 *


 唐突な決意から機会をうかがうこと数日、激しく打ちつける雨の音を聞きながら、今日を最期の日にしようか、とぼんやり思った。

 都内で局地的な豪雨が発生していた七月下旬のこの日は、たまたま仕事が休みだった。

 仄暗いリビングのカーペットに座り込んでスマホをいじる私の傍らでは、アユが布団に包まって荒い呼吸を繰り返し、時折苦しげに咳込んでいる。

 幼児期ほどではなくなったものの、成長しても彼の虚弱体質は相変わらずだった。天気の悪い日は、目立って体調も悪くなる。

 このときも、前日の夜に大きな喘息発作を起こし、そこによりによって豪雨の低気圧が重なったせいか、完全にダウン。

 午前中はそんなに雨が強くなく、お父さんと理佳子さんは仕事に行かなければならなかったので、私が看病を引き受けたのだ。

 看病といっても、熱は微熱程度だし、とりあえず嘔吐もしていないので、こうしてそばにいるだけだけれど。

 当然ながら、この悪天候で、大雨や洪水に関する様々な警報が出されていた。

 自宅から徒歩で行ける距離に、比較的大きな川がある。今ならあそこも、かなり増水しているはずだ。

 ――死ぬなら入水、と決めていた。一番苦しそうだから。

 自分の価値なんて分からないけれど、それでも私が死ねば、少なからずいろんな人を悲しませ、苦しませることになるだろう。

 アユは、その代表みたいなものかもしれない。

 だったらせめて、私も苦しんで死ぬべきだと思った。

 確かな意志と覚悟を持って、死ぬこと。

 何を言っても身勝手なことに変わりはないけれど、それが私なりの責任の取り方だ。

 なんて考えていると、スマホがメッセージの着信を知らせた。理佳子さんからだ。

【雨、すごいね! アユの様子も心配だし、このままだと足止め食らって帰れなくなるといけないから、ちょっと無理言って早めに上がらせてもらっちゃった。四時半頃には帰れると思う】

 壁の時計を見やれば、時刻は十六時十分過ぎ。

 じきに理佳子さんが帰ってくる。雨はどんどん激しさを増している。

 なぜだかそれらの事実が、私の漠然とした計画をとたんに現実的なものに変えてしまった。

 来月の初めでモデルデビューして一年経つから、所属事務所との契約も一旦満了になるはず。このタイミングなら、周囲にかける迷惑も最小限で済むだろうか。そんなことまで脳裏をよぎる。

 妙に頭が冴えていた。まるで神様に、お前の望みを叶えるなら今だ、と言われているような。

 ――今日しかない。

 一度思ったら、迷いはなかった。

 私はスマホをカーペットの上に置き、立ち上がって玄関へ向かう。

「姉さん……?」

 数歩進んだところで、か細く不安げなアユの声に呼び止められたが、

「大丈夫。すぐ戻るから」

 振り返らず、そう言った。

 嘘だ。もう戻らない。絶対に。

 彼についた、最初で最後の嘘。

「……もうすぐ、理佳子さんも帰ってくるよ」

 彼に安心感を与えるため、そして自身の罪悪感をやわらげるため、真実を言い添えた。

 彼の前ですら、理佳子さんを「お母さん」と呼んだことはない。

「でも僕……」

 なおも引き止めようとする彼を置き去りにして、リビングを出た。


 緑が茂り、斜面になった土手の上から見えるのは、茶色く荒れ狂う川。

 降り続ける雨が、私の長い髪を乱し、衣服を重くしていく。

 だけどもう、どんなに濡れたって、汚れたって構わない。

 どうせ、どうせ――

 半ばやけになりながら土手をおりようとした瞬間、

「姉さんっ……」

 背後から必死さの滲む声で呼び止められた。私のことを「姉さん」と呼ぶ人物は、ひとりしかいない。

 そう思いながら振り向けば、

「アユ……」

 案の定、パジャマ姿の弟が、少し離れたところに立っている。

 追ってきたのか。歩くのも辛いだろうに。

「何やってるの? 寝てなきゃダメじゃない」

 冷たく言い放つと、彼は息を切らしながらよろよろと歩み寄ってきて、私の隣で足を止めた。

「何……って、それはこっち……の、台詞だよ。携帯、置いて……ってるし……」

 こちらを向いて胸を押さえ、途切れ途切れに話す彼の呼吸には、ゼェ、ヒュー、と苦しげな異音が混じっている。

「帰るよ。姉さん」

 命令じみた口調で強く腕を掴まれ、悟った。この子は私の目論見に気づいているのだと。

「放してっ! あなたに分かるわけない!」

 とっさに拒絶して振り払う。

 弱った体には、さほどでないはずの私の力も、かなりこたえたのかもしれない。雨で滑りやすくもなっていたのだろう。

「うわっ!」

 彼はバランスを崩して土手の斜面を転がり落ち、

「うっ……」

 下にある低い石段にぶつかって、入水を逃れた。

 私は今、何をした……?

「アユっ……!」

 一瞬停止した思考が動き出すと同時に、がむしゃらに彼のもとへ駆け寄った。

「ねぇ、しっかりして! アユ!」

 仰向けの体を揺さぶって呼びかけるが、気を失っているらしく、彼は目を閉じて弱々しい異音を繰り返すだけ。

 石段の角に打ちつけたのか、頭部からは流血していた。

「ちょっ、誰か……!」

 助けを呼ぼうにも、この大雨じゃ人は見当たらないし、声も掻き消されてしまう。

 スマホも吸入器も、家に置いてきた。包帯代わりになりそうなハンカチすら、持っていない。

 どうすれば――

 黒ずんだ赤。苦しげな呼吸音。震える手。

 冷たく、責め立てるように背を打つ、大粒の雨。

 嫌だ。いやだ。イヤダ――

 パニックに陥りかけたそのとき、

「ねえ……さん……」

 小刻みに震え続ける私の手を包み込む、冷えたぬくもりを感じた。苦しげな異音の隙間で私を呼ぶ、声。

「アユっ!」

 彼が薄目を開けている。そして、

「よかっ、た……なんともなくて」

 重ねた手に少しだけ力を込めて、そう言った。

 唇をわななかせるばかりで何も返せずにいる私に、彼は優しく微笑みかけると、再び意識を手放す。――か細い異音も、ふっと消えた。

 嘘……でしょ?

 なんで。どうして。違う。違う。

 あなたじゃない。死ぬのは、あなたじゃないのに。

 信じられなくて何度も呼びかけたけれど、今度こそ目覚めてくれなくて。

 声の限り泣き叫んでも、やっぱり誰も助けに来てはくれなかった。

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