もう誰も恨まなくて、何も憎まなくて、いいんだよ
*
「やあ。アヤ」
能天気な声にぱっと目を開けると、大きなべっこう色の瞳が至近距離にあった。
「うわっ!」
驚いて反射的に起き上がり、枕を投げつけるが、
「おっと、何するのさ。キミがダウンしたって聞いたから、このボクがわざわざ心配して見にきてあげたっていうのにぃ」
声の主は言いながら、小さな体をモモンガのように動かして軽々とそれをかわした。
窓の外は爽やかに晴れ、日が高く昇っている。当初の計画通り、ずいぶんと熟睡していたようだ。
そんなことを考えながら、目の前の侵入者を睨みつけた。
こいつはたしか、マダムの
大きな三角形の耳に、長いしっぽ。毛色はグレーを基調とし、顔、手足、胸のあたりには、白やクリームっぽい色も混ざっている。
見れば見るほど、妙な生き物だなぁ、と思う。人によっては、かわいいと騒ぎそうな気がしなくもないが。
「まったく。アヤってば、顔はかわいいのに、中身はちっともかわいくないんだから」
「うっさい。ショウガザル! その台詞、そっくりそのまま返してやる!」
「ショウガザルじゃなくて、ショウガラゴね」
そう。動物と行動をともにするのは、一流の魔女である証なのだが、マダムはどういうわけか、希少なサルの一種を連れているのだ。
そこに関して厳密なルールはないものの、他の魔女仲間たちからも「みんな、せいぜい猫の毛色が違う程度なのに……」と変わり者扱いされているらしい。
「っていうか、そもそもダウンなんかしてないしっ! ちょっと魔力使いすぎただけ!」
「だから、それをダウンしたって言ってるんじゃないか。まだ本調子じゃないんだから、あんまり騒いだら――」
小生意気なサルとやり合っていたら、枕もとに置かれた僕の懐中時計が白く点滅した。その隣にはマントも畳まれている。
きっと部屋まで運ばれたとき、ハル兄あたりが気を遣って取り外してくれたのだろう。
それはそうと、小瓶は――ちゃんと胸もとにあるようだ。
ほっとしながら懐中時計を手にし、蓋を開けると、
『トワイ? いるのでしょう? 何をやっているの?』
マダムの澄ました声が聞こえた。
これは、時計でありながらときに電話の役割も果たす、便利道具なのだ。
トワイ――そういえばこいつ、名前もそんな変な感じだったな。
日の出前や日没後の薄明かりを意味する「トワイライト」が由来だとかなんとか。
マダムが直々に名付けたんだろうから、間違っても変だなんて言えないけれど。
「え? えっとぉ。その、衰弱した愛弟子さんの様子を見に……」
明らかにうろたえた様子で答えたトワイに、
『頼んでないわ。早く帰ってらっしゃい』
マダムは凛とした、それでいてどこか冷めた声色で返した。
「はぁい……」
子供じみた口調で渋々応じたトワイの耳は、つまらなそうに垂れ下がっている。
『お騒がせしてごめんなさいね、アヤ。疲れているでしょうに』
ふいに関心を向けられただけで、しゃんと背筋が伸びるような気がした。
「いえ、お久しぶりです」
『体調は大丈夫なの?』
「はい。だいぶ回復しました」
『そう。よかった』
最後に話したのはいつだったか。ここへ連れてこられて手ほどきを受けたとき以来、記憶にない。
『ところで――あなたの懐中時計、ずいぶんと闇玉をため込んでいるようだけど?』
後ろめたいことなんて何もない。何もないはずなのに、どきりとした。この方は、すべてお見通しなのだろうかと。
「昨日、悪霊のたまごと対峙しなければならなかったので、それで。……今から浄化します」
『あら。それはご苦労さま。だけど、あまり無謀な真似はしないようにね。あなたは唯一の女の子なんだから。荒仕事は、お兄ちゃんたちに任せておけばいいのよ?』
「はい」
動揺を悟られないよう、手短に返答する。
『それじゃあ、失礼するわ。トワイ、すぐに戻るのよ?』
マダムがもう一度トワイにくぎを刺したのを最後に、懐中時計の点滅がやんだ。通話が切れたのだ。
トワイとふたりで、深いため息をつく。
「もうっ、あんたのせいで余計な神経使ったじゃん!」
憤慨しながら懐中時計を閉じた瞬間、
「あっ」
唐突に思い出した。
そうだ。すっかり忘れていたけれど、こんなこともあろうかと、僕はこいつを追い払うためのとっておきのアイテムを持っている。
急いで机に歩み寄って、片手に握ったままの懐中時計を置き、引き出しを開けた。
奥のほうから、長らく目にしていなかったパッケージを掴む。そして中身を適当に五、六個取り出すと、それを空中に向かって放り投げた。
「ほらっ、これあげるからさっさと帰ってよね」
小さな骨の形をした、小動物用のおやつだ。
「わーお! こんなにくれるの!?」
トワイは歓声を上げて大ジャンプを繰り出すと、四肢と口、それにしっぽまで使って、きれいにすべてのおやつをキャッチし、そのままくるりと一回転して煙とともに消えていった。
やれやれ、とひとつ息をつき、机上の懐中時計を見つめる。
疲れたようにくすんだ、金色。
浄化をしなくては。億劫だけれど、闇玉をため込みすぎれば、いずれ時計は壊れて魔力を失ってしまう。魔女であり続けるのも、楽ではないのだ。
僕は再び懐中時計を開け、一度指を鳴らしてから、文字盤に右手をかざして意識を集中させた。
すると、ぐにゅ、ぐにゅ、とゴムがこすれ合うような鈍く苦しげな音がして、中からバレーボール大の闇玉が吐き出される。
と同時に、懐中時計は本来の艶めきを取り戻したが、
「え、でか……」
思わず漏れた。
膨大な量だと分かっていたので、あらかじめ粒子をまとめて圧縮する魔法をかけておいたのだが、思った以上の大きさになった。
同じ処理を何度かしたことはあるけれど、ここまでの大物は初めてだ。
僕は出窓を開け放ち、
「よいしょっと」
特大の闇玉を抱えてその前に立った。
青い空の下まで腕を伸ばし、優しく撫でさすってやれば、闇玉は僕の触れた部分から徐々に眩い白へとその色を変え、太陽の光を反射しながらたんぽぽの綿毛のように風に乗って散っていく。
――不純なものは、必要ない。
「ばいばい」
もう誰も恨まなくて、何も憎まなくて、いいんだよ。
腕の中が空っぽになるまで撫で続け、無事に見送りを終える。
目を閉じて、清々しい気持ちで秋風を胸いっぱいに吸い込んだとき、もうひとつ、あることが脳裏をかすめた。
ジーンズのポケットに手を突っ込み、取り出す。
彼女が最後に遺した、想いの結晶。強い、気配。
亡者は歳を取らない代わりに、精神面も亡くなった当時のままだ。
成仏しない限り、時の流れから永久に切り離される。
……何をやっているんだろう。
僕は気づけば、煌びやかな残滓を出窓の前に置き、右手をかざしていた。
この金平糖状の輝きの奥深くには、もっと具体的な想いの象徴が眠っている可能性がある。
うまくいけば、よみがえるかもしれない。
そう思い、意識を集中させた。
しばらくすると、手の下で、金属が躍る音と感触を覚え、そっとどける。
姿を現したのは――小さなシルバーリングだった。
おそらく、彼を捜しにいった道中、彼女が沙那に自慢げに話していたものだろう。
さて、よみがえらせたのはいいけど、これ、どうしようか。
とっさに悩んでしまったが、答えを出すのに、さほど時間はかからなかった。
この指輪は、彼女のかけらから生まれたものだ。
だったら、彼女が望む場所に連れていってあげよう。
僕だって昨日のままじゃ、ばつが悪い。
魔女だからこそ、できること。
――さぁ、君はどこへ行きたい?
指輪に今一度右手をかざして心中で問いかければ、眩く白い光が放たれ、まっすぐに一点を示した。
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