修羅場


 *


 ど、どどどど、どうしよう。なんか怖い。修羅場だ……

 金曜の夜、いつもの時間。わたしは殺伐とした雰囲気の中、パジャマのままでどうしたものかとあたふたしていた。

「後悔なんかないって言っとろうがっ!」

 薄く透けた体を前のめりにしていきり立つのは、白髪で青いパジャマ姿のおじいさん。今回の依頼者、タカシさんだ。

 親孝行の孝と書いてタカシだと、先ほど自己紹介してくれた。どこか、誇らしげに。

「だから、そうやって逃げてたら僕らは何もできないんだってば!」

 負けず劣らず声を荒らげるのは、向かい側に立つマント姿の彩。彼女は今日、「兄貴に面倒な案件押し付けられた……」とただでさえご機嫌ナナメだったのに、我の強いタカシさんが火に油を注いでしまった。

 そんな両者の間に立ち、ひたすらうろたえる、わたし。

 連れ立ってやってきたときから、このふたりが仲良くやれるわけないだろうな、となんとなく察してはいたけれど。

 かれこれ十分以上、出窓の前で不毛な言い争いが続いている。なだめる隙もない。

 ママが夜勤に出ていてよかった。

「逃げてなどおらんっ!」

 堂々と言い放ってその場にどしりと座り込み、胡坐をかいてしまったタカシさんに、

「はぁ~、もうっ!」

 彩は心底苛立った様子で頭を掻きむしりながら近づき、

「いっ……! 何をする!」

 痛がるのも構わず乱暴に彼の手を引くと、自分の右手を重ねた。

 直後、タカシさんの体が瞬く間に鮮明になっていく。本人は、わけが分からないといった様子で目を白黒させていた。

 こんなに早いうちから人間に戻してどうするのだろうと眺めていたら、

「沙那、お酒ある?」

 彩の口から飛び出た一言に、「えっ」と驚きがこぼれる。

 お酒って、まさか。

「酔い潰すおつもりですか……?」

「だって、このままじゃらちが明かないから」

 恐る恐る尋ねたわたしに、彼女は平然と答える。

 で、本音を聞き出そうと。いくら故人が相手でも、それは犯罪に片足を突っ込んでいるのでは? 彩さん。

 そう思いながらも、

「お酒ならなんでもいいから、早く」

「はっ、はいっ!」

 とげのある物言いに逆らえず、使用人のごとく従うしかなかった。

 急いでダイニングへ向かう。

 ママが意外と酒豪だから、何かしらの酒類はあったはずだ。

 何度でも言おう。ママが留守でよかった。

 心の中で今一度繰り返しながら、冷蔵庫を開けると、やはり数本のアルコール飲料が顔を見せた。

 その中から、最も度数が低そうな酎ハイを一缶手に取る。

 三パーセント。

 なんでもいいとは言っていたものの、手加減したと分かったら、彩に怒られるだろうか。

 内心ビクビクしながら自室へ戻り、缶のプルタブを開けて、「どうぞ」とタカシさんに差し出す。

 すると彼は怪訝そうに小首をかしげたので、

「お酒です」

 そう言い添えると、黙って受け取ってひとくち含み、

「なんじゃ、この甘ったるい飲み物は。本当に酒なのか?」

 なんて言って顔をしかめる。

 しかし、「甘い! 甘すぎる!」と文句を垂れながらも飲み続け、空になる頃にはすっかり泥酔してしまった。

「お酒、弱いのね……」

 わたしは苦笑しながら、ぐでんぐでんに酔ったタカシさんをカーペットの上に寝転がし、毛布をかけた。

 おじいちゃんって、案外軽いんだな。

 今夜はここに泊めることになるだろう。けれど、ダイチくんのときのように同じ布団で寝るのはさすがに抵抗がある。ちょっと寒いかもしれないが、毛布一枚で勘弁してもらおう。

 それはそうと、ママみたいな酒好きじゃなくてよかった。平気で二、三本空けるような人だったら、ストックが減っているとバレないように、後でこっそり買い足さなくてはいけないかと思っていたから。

 ほっと胸を撫でおろしたわたしとは裏腹に、

「あーあ。これじゃあ意味ないじゃん。なにもここまでするつもりじゃなかったのに……」

 彩は呆れたようにこぼしながらひざを折り、またタカシさんの手のひらに右手を重ねた。

 タカシさんの体が再び、半透明の曖昧なものとなる。

「戻したの?」

 どうして? という意味も込めて問うと、

「万が一夜中に起きてゲーゲー吐かれたら大変でしょ? お酒、弱いみたいだし。僕の命、一日ぶん無駄にしたようなもんだけどね」

 彼女は淡々と答えた。

 たしかに。

 幽霊には肉体がないから、嘔吐もできなくなるのだろうか。吐き気自体を感じなくなるのならまだしも、吐きたいのに強制的に我慢させられるのだとしたら、本人にとっては地獄だ。

 でも、介抱する自信もないので、これが最善策だろう。

 それにしても、毎回本当に惜しみなく命を譲り渡すのだなと思う。ハルカさんのときは、図々しさにうんざりして渋っていたけど。

 いつだったか、贖罪だとか言っていたっけ?

 あれこれ考えていると、

「……ず、ちぃ……ず、を」

 タカシさんが、よく聞き取れない寝言を呟いた。

「はっ? チーズ? 居酒屋行ってる夢でも見てんの?」

 不機嫌な彩のツッコミに、思わず笑ってしまう。

「さてと、今日はこれ以上いても収穫なさそうだから、そろそろ帰るよ」

 そう言って気だるげに立ち上がった彼女を、

「あっ、あのっ、彩」

 すかさず呼び止めた。

 彼女は不思議そうにこちらを見つめる。

「明日も、ちゃんと来てね……?」

 ためらいがちに告げると、その目がふっとやわらかに細められた。

「僕があんまりイライラしてるから、ばっくれるんじゃないかって不安になっちゃった?」

 図星を指されて、肯定も否定もできずにいたら、

「それが許されるならとっくにしてるんですけど。前回とか」

 今度はちょっとふて腐れたように返される。

 言われてみればこのところ、彩の神経を逆撫でするような案件ばかりだ。

 というかむしろ、比較的穏やかだったのはダイチくんのときだけか。

 彼女はふぅ、と覚悟を決めたようにひとつ息をつくと、言った。

「大丈夫。一度手を出したからには、最後までちゃんとやるよ。僕だけの問題ならともかく、ここでやめたら、沙那との約束も守れなくなるわけだし」

 ――あぁ、ほら。

「中途半端は、嫌いだから」

 やっぱり、強くて優しい人だ。

 最後にいかにも彼女らしい一言を残して、「それじゃあ、また」と出窓から去っていく彩。

 その後ろ姿を見送りながら、ささくれ立った心がほぐれていくのを感じる。

 ……先週、ママと喧嘩した。

 いつもなら今日みたいにママが仕事に行っているか、行動が目立たなくなる時間帯を狙ってうまく抜け出していたのだが、あのときは――そう、フラフラの彩に押し切られるまま、深く考えず早めに帰宅したのがよくなかった。

 まだ起きていたようで、物音を聞きつけて、あろうことかマント姿を見られてしまったのだ。

 そんな格好で何をしているのかと訊かれ、「ちょっと友だちと……」と濁すと、詳細を問い詰めるでもなく、ただ一言、こう言った。

 変なお友だちと関わるのはやめなさい――と。

 私の勝手を叱るのはいい。だけど、彩のことを悪く言うのは許せなかった。

 すごく素敵な人なのに。会ったこともないくせに。

 爪が食い込んで痛いくらいに拳を握り締めて、こらえようとしたけれど、

「ママっていつもそうだよね。よく見聞きもしないで、あれもダメ、これもダメって決めつけて。わたしはわたしがやりたいと思ったことをやるし、いいと思った人と関わるの。いちいち指図して、自分の監視下に置かないで。わたしはお母さんのお人形じゃない!」

 結局、これまでたまりにたまっていたものを、勢いで全部ぶちまけてしまって。

 最後に「お母さん」と呼んだのも、完全に無意識だった。

 それからはお互い、まともに口をきいていない。朝の入念なヘアセットもなくなった。

 約束の日まで、任務は今回を含めてあと二回程度のはず。果たして、何事もなく乗り越えられるだろうか。


 何かがもぞもぞと動き出すような気配で目が覚めた。

 薄目を開けると、タカシさんが毛布の上でまた胡坐をかいている。

「……目、覚めちゃったんですね。気分悪くないですか?」

 わたしも起き上がって布団の上に座り、寝ぼけ眼をこすりながら尋ねたら、

「平気じゃ。年寄り扱いするでない」

 彼は不機嫌そうに答えた。

 おじいちゃんじゃなくても飲み過ぎたら具合悪くなりますけどね、なんて思いながらも、「すみません……」と苦笑した。

「あの、タカシさん」

 思いきって口を開くと、

「……なんじゃ」

 彼は不愛想な態度を崩さず問い返す。

「どうしても、教えてもらえませんか? やり残したこと」

「だから、教えるも何も、ないと言っておる――」

「なんの未練もないなら、タカシさんはここにいないはずなんです」

 呆れ口調で繰り返す彼に、思わず食い気味に告げれば、一瞬怯んだ気がした。

「どんな小さなことでもいいので」

 その隙をついて、さらに重ねる。

 すると、彼は「ほう」と片目をつむって口角を上げ、小生意気な表情でこちらを見やり、

「本当だな? その言葉、忘れるでないぞ?」

 と試すように言った。

「もちろん。それが、わたしたちの仕事ですから」

 どんと胸を張って受ける。

 といっても、わたしはただの助手なんですが。

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