わたげ荘
*
黒ずんだ赤。
苦しげな呼吸音。
震える手。
冷たく、責め立てるように背を打つ、大粒の雨。
嫌だ。いやだ。イヤダ。
――ゴメンナサイ。
大嫌いな夢を見た。
こんなに気重な朝は久しぶりだ。
頭が痛い。
起き上がって悪夢を振り払おうとしたら、昨日の一件が脳裏をよぎった。
あぁ、そうだ。そうだった。
仕事を、しないと。
僕はこめかみを押さえながら、ベッドから抜け出す。
着替えを済ませて、枕カバーの中に隠しておいた小瓶を首にかけ、それをさらに胸の中へ。
ジーンズのポケットに財布とスマホを突っ込み、机の引き出しから懐中時計を取り出して腰にさげると、机上に畳まれたマントを手に取り、階段をおりる。
わたげ荘――ここは、僕たち花魔女の住処だ。
二階建てのログハウスで、現在は僕を含めて三人の花魔女が共同生活している。
沙那には兄がふたりいると説明したが、血のつながりはなく、わたげ荘の
中には生まれつき魔力を持った者もいるけれど、僕らはその類じゃない。
一階へおりて洗面所まで行き、ノブをひねってお湯にしてから歯磨きを済ませ、そのまま顔と手を洗う。
洗面所を出てすぐのダイニングでは、野花家の長男的存在――
短くさらさらな茶髪は、僕の髪よりずっと艶やかだ。
目玉焼きでも焼いたらしく、卵の甘く優しい香りが漂う。
「おはよー、彩」
「おはよ」
軽く挨拶を交わしながら、マントを羽織ると、
「もう行くの? 朝ごはんは?」
温人が驚いたような顔で尋ねてきた。
「あー、いいや。後で適当になんか買うし」
お腹が空いていないわけではないけれど、ここで座ったら、二度と重い腰を上げられなくなりそうな気がする。
歯磨きしちゃったし。
そう思って断ったら、露骨にしょげられた。
「えー、もう。いらないなら早く言ってくれよ。せっかく作ったのに……」
その口ぶりは、まるでお母さんだ。
「ごめんごめん。ショウ兄がふたりぶんくらい食べるんじゃない?」
苦笑交じりになだめていると、二階から足音が近づいてきた。
「なんだよチビ。最近、やたらやる気じゃねぇか」
噂をすれば、もうひとりの花魔女――
「チビじゃないってば。一六二センチっ!」
今年成人したという彼は、威圧的な見た目通り酒癖が悪い。
「うっせ。十センチも低きゃ充分チビに見えるっつーの」
「むむむ……」
ついでに口も悪い。
寝癖のついた、男にしては長めの黒髪を掻きむしりながら洗面所へ向かう背中にベーッと舌を出すと、温人――ハル兄が楽しげに笑った。
「相変わらず仲良しだな、ふたりとも」
「どこがっ!」
振り返って憤慨すれば、彼はもう一度笑って、穏やかな顔つきのまま言う。
「意欲的なのはいいことだけど、あんまり根詰めすぎないようにね。彩はただでさえ、
「――大丈夫だよ。いってきます」
正直、行きたくないけど。
そんな本心を胸の奥に押し込んで、玄関へ向かおうとしたとき、
「あっぢぃ! おいチビ! お前また蛇口熱湯にしただろッ!」
洗面所で、ショウ兄のそんな叫び声が響いた。
「おっはよー。今日は魔法かけてくれるでしょ?」
重い足を引きずって沙那の部屋へ向かうと、すでに亡者が待ち構えていた。
「あのねぇ……」
僕は呆れ果てて額に手を当てる。
もうほんとに嫌だ。沙那がいなかったら、こんな案件、とっくの昔に放棄していただろう。
しかたない。ここはきちんと説明しよう。
事を深刻にしたいわけではないけれど、紛れもない事実だし、相手も事情が分かれば、多少はおとなしくなってくれるかもしれない。
僕は亡者の真正面に立って、まっすぐに前を見据えた。
亡者も空気の変化を感じ取ったのか、すっと生真面目な表情になる。
「正確に言えば、あなたが人間に戻るために必要なのは、魔法じゃない。僕の命です。僕の寿命の一部を、あなたに譲り渡すんです」
いつか沙那に言ったのと同じ言葉をゆっくりと繰り返すと、亡者は、
「そうだったの。そんなことができるのね……」
と面食らったように目を丸くした。
うなずいて、僕は続ける。
「だから、いくら微量とはいっても、たやすくできるものじゃないんです。まずは彼を見つけた上で、そうしたほうが有意義だと僕が判断したら、実行しますから」
僕の話を聞き終えた亡者は、少しばかり申し訳なさそうな顔をした。
「なるほどね。そんなに大仰なことだとは思わなかった。知らなかったとはいえ、あたしも配慮が足りなかったわ。ごめんなさい」
えらく素直に謝ったと思ったのもつかの間。すぐさま気合いを入れ直すように、薄く透けた拳を突き上げた。
「でもそれって、彼を見つけ出して、お互いの想いの強さを分かってもらえばいいってことでしょう? 任せておいてよ」
なんか、また都合よく解釈されたような……
もはや訂正する気力すらなくしていると、ふいに亡者が腰を屈め、まじまじと顔を覗き込んでくる。
「……なんですか」
鬱陶しげに尋ねたら、
「あなた、女の子よね? どうして『僕』なんて言ってるの?」
予想の斜め上をいく質問が飛んできた。
「どうだっていいでしょ、そんなの。彼がよく来る場所は知ってるんですよね? 行きますよ」
冷たくあしらう僕を、いつの間にかマントを羽織った沙那が、困ったように笑いながら見ていた。
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