わたしが、わたしたちがいる
*
「そっか……」
ダイチくんの話を聞き終えたわたしは、なんと言っていいか分からず、そんな曖昧でありふれた一言しか返せなかった。
「カイにいはどっかいっちゃったし、フウにいも、『ダイガク』っていうのがおわったらひとりでくらすんだって」
そう続けたダイチくんに、忘れかけていた違和感がよみがえる。
ダイガク。
夜道での、『コクゴキョウシ』もそうだった。
おそらく彼は、家族の会話から聞き取った単語を雰囲気で真似ているだけで、それが、「学校で国語を教える先生」だということ――要するに、言葉の意味を理解していないのだ。
つい先ほど言っていた、家族の「将来の話」から聞きかじったのだろう。
彼の年齢を考えれば、まあそんなものなのかもしれない。
それよりも、重大なのは――
疑惑が確信へと変わると同時に、新たな問題の発生を感じて、わたしは思わず頭を抱えたくなった。
すると、
「あの、さ……」
ダイチくんの呼びかけが、ためらいがちに途切れて、ワントーン暗くなる。
「どうしたの?」
訝しげに思って尋ねると、彼は伏し目がちに俯いて、
「ボク、サナねえちゃんのて、つかめなかったよね……?」
不安と切なさを含んだ声で、切り出した。
「えっ……?」
単刀直入なその問いかけに、またもかける言葉が見つからない。
少し頭を働かせれば、予測できたはずなのに。
自分だってさっき、同じように痛感したくせに。
「ねぇ、なんで?」
ダイチくんが、すっと顔を上げる。
もうそこに
「ボク、どうなっちゃったの?」
「それは――」
君はもう死んでるんだよ、なんてそんなこと、誰がどうして言えるだろう。
わたしにはできない。
だから代わりに、
「――怖かったよね」
そう言って、ぎゅっと抱きしめた。
わたしの手は、ダイチくんのひんやりと透けた体をすり抜けてしまうけれど、それでも。
ひとの痛みや苦しみに、たやすく同情するのは、軽はずみかもしれない。
だけど、わたしには分かる気がする。
自分の声が届かないのは、辛くて、苦しくて、むなしい。
目の前にいる相手にすら、この人は何を見ているんだろう? と怖くなることがある。
なのに、誰にも気づいてもらえないなんて、想像しただけで胸が張り裂けそうだ。
「ボク、このままひとりぼっちになっちゃうのかな……?」
耳もとで聞こえる声が、切なげに揺れる。
「大丈夫。大丈夫だから」
ひとりぼっちになんか、させない。
わたしが、わたしたちがいる。
誓うような気持ちで抱きしめる手に力を込めると、幼いすすり泣きが聞こえだした。
後ろに回していた腕を少し緩め、彼の背中を、ゆったりとしたリズムで優しく叩くようにする。
この小さな背中は、今日まで、どれだけの恐怖と孤独を背負ってきたのだろう。
そう思うと、また胸の奥が
どれくらい、そうしていただろうか。
気づけば、ダイチくんのすすり泣きは穏やかな寝息に変わり、わたしもうつらうつらし始めていた。
いい加減寝なきゃな……
背中を叩いていた手を止め、まぶたの重みを感じていると、枕もとに置いたスマホがメッセージの着信を知らせた。
もしやと思い確認すれば、案の定、彩からだ。
【お疲れさま。こんな時間にごめん。明日(っていうかもう今日か)昼前くらいにまた迎えに来るから、お兄さんに話を聞きにいこう。日中だし人に会うから、マントじゃなくて私服で】
『お疲れさま。でも、大丈夫かな? 急に押しかけちゃって』
【大丈夫。僕に秘策があるんだ】
秘策?
意外な返答に疑問を抱いたが、そろそろ眠気も限界だったので、ここは彩の言葉を信じ、手短に『りょーかい』のスタンプだけ送ってスマホを置いた。
ママは近くの老人福祉施設で、介護士として働いている。
土曜だし、早番だったはずだから、多少遅くまで寝ていても大丈夫だろう。
目覚めてからの動きを頭の中でシミュレーションしながら、目の前のすこやかな寝顔を見て、思った。
わたしたちにできることは、ほんの些細かもしれないけれど。
こんなに頑張ってるんだ。
せめて最期の最期くらい、とびきり幸せにしてあげたい。
わたしは、決意を新たにして、ゆっくりとまぶたを閉じた。
*
太陽が眩しくて目が覚めた。
午前十時半。
壁かけ時計を見やって時刻を確認したわたしは、ママが知ったら大騒ぎするだろうな、と苦笑した。
ダイチくんはまだ隣で熟睡しているようだ。起こさないようにこっそり布団から抜け出す。
洗面所で顔を洗って、ダイニングで小さなバターロールと牛乳を温め、遅めの朝食を簡単に済ませた。
歯磨きをしたら、一旦自室に戻る。
いくら幼くて熟睡しているとはいえ、ダイチくんの前で着替えるのは少々ためらわれた。
チェストから適当に動きやすそうな服――ベージュのトレーナーと白のスリムパンツなどを選んでリビングへ。
手早く着替え、髪を整える。
再び自室へ戻って時刻を確認。お昼までにはまだ余裕があった。
そうだ。折原家への手土産に、クッキーでも焼こう。
卵も牛乳も小麦粉も使わない、アレルギー対応の体に優しいクッキー。
そうと決まれば、さっそく調理開始だ。
腕捲りして手を洗い、キッチンに立つと、ホットケーキミックス、マーガリン、豆乳、砂糖などをポリ袋の中で混ぜ合わせてこね、そのまま伸ばして取り出す。
型抜きをして、オーブンで十五分から二十分ほど焼けば完成。
きれいなきつね色が顔を見せ、ふんわりと甘く優しい香りが漂う。
お菓子作りは、物心ついた頃から好きだった。
何か作っているときだけは、嫌なことも、悲しいことも、自分への不甲斐なさも、全部忘れられるから。
心配性なママのせいで、なかなかひとりでキッチンに立たせてもらえなかったし、今でも、包丁や火を扱うメニューは勝手にやってはいけないことになっているけれど。
こうやって、基本約束を破らない範囲で、でもときに目を盗んでいろんなものを作っていたら、洗い物の節約術なんかも覚えた。
そんなふうだから、ラッピング用品も常備している。
わたしは焼きあがったクッキーを鉄板ごとテーブルに置き、もう一度手を洗うと、自室の引き出しから小袋とリボン、それから小さめの手提げ袋を持ってきた。
小袋に冷ましたクッキーを適量入れてリボンを結び、それをさらに手提げ袋の中にしまう。
うん。上出来。
満足げにうなずいて背後の時計を見やれば、いつの間にか起床してから一時間以上が過ぎていた。
急いで片付けを終え、再び自室へ戻ると、
「あっ……」
いつかと同じように、彩が出窓に背を預けて座り込んでいた。
レースカーテンが風に揺れている。
「おはよ」
白黒の迷彩パーカーにジーンズというカジュアルな出で立ちで、こちらを向いて軽く挨拶する彼女。
「びっくりしたぁ……夜中じゃないんだから、普通に玄関から入ってこればいいのに」
言うと、「なんか好きなんだよね、窓」なんて答えて脚を投げ出し、すとんとカーペットに降り立った。
「かわいいもの持ってるじゃん」
ふと手もとを指さされ「あぁ、これね」と手提げ袋を掲げる。
「彩が来るまで時間があったから、手土産でもと思って、ちょっとクッキー焼いてみたの」
「さすが、僕と違って女子力が高い」
彩の返答がおかしくて、思わずクスッと笑ったとき、背後で寝ぼけたようなうなり声が聞こえた。
視線をやると、ダイチくんが布団の上に座って、猫のように目をこすっている。起こしてしまったようだ。
「おねえちゃんたち、おでかけするの?」
投げかけられた質問に、少し悩んでから「うん。ちょっとね」と答えた。
「ボクもいく」
やっぱりそうなるよね、と思いながら、
「あー、ごめんね。今日はちょっと、ここで待っててくれないかな?」
諭すように言うと、
「やだ。おいてかないで」
ダイチくんは走り寄ってきて、駄々をこねるように首を左右に振る。
姿が見えないのだから、連れていくこと自体はさほど問題ないのかもしれない。
でもそれは、他でもない彼を、一番傷つけてしまうだろう。
――おいてかないで。
何気ない一言が、心をえぐる。
寂しげにおろされた透明な指先が、わたしの右手の指先と交わっていた。掴もうとするように。
わたしは、そんな彼に微笑みかけ、視線を合わせる。
「大丈夫。絶対に戻ってくるから」
「ぜったい?」
「うん。絶対」
そうすればきっと、伝わる。
「……ぜったいだからねっ!」
ダイチくんは念を押すように叫ぶと、背中を丸めてまた布団の上に寝転がってしまった。
だけどたぶん、本気でふて腐れているわけじゃない。
「じゃあ、行こうか」
そっと言った彩にうなずいて、ともに部屋を後にした。
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