「もうすぐそっちへいくんですもの」


 *


 シズヲさんが近くにいるって、どういうことだろう。

 わけも分からず彩に促されるまま、わたしたちは昨日三人で来た田舎道を再び歩いていた。

 マントのフードをかぶったわたしと、タカシさんに挟まれる形で歩を進めている彩の手のひらには、文字盤が淡く光り、スローテンポで点滅を繰り返す懐中時計がのせられている。

 先ほど彼女がタカシさんに蓋を開いて見せ、「シズヲさんのことをイメージしてください」とお願いしたところ、何かを感知したらしく、このような反応を示したのだ。

 ぽうっと光る深紅の文字盤が示す時刻は、午後七時過ぎ。

 もうすっかり日が落ちた道を、彩は真剣な表情で懐中時計を見つめながら、ぐいぐいと突き進んでいく。頭を覆うフードは、時折夜風に煽られている。

 どこまで行く気だろうと思いつつも、漂う圧に口を開けず、無言でついていけば、なんとあの、民家が並ぶ敷地に入っていくではないか。

 彩は何かを確かめるように、一軒一軒の前で立ち止まり、手にのせた懐中時計を前方へ差し出す。

 すると、とある家まで来たとき、懐中時計が点滅のスピードを速めた。

「ここだな」

 そう言うなり、懐中時計を左手に持ちかえ、もう片手でタカシさんの手を取り、幽霊姿に戻してしまう。

「お前さん、さっきから何を……」

 戸惑うタカシさんに、彼女は淡々と、しかし緊張感の滲んだ声色で告げる。

「どうか、今は僕の言うことを黙って聞いてください。そうすれば、あなたの願いを叶えられるかもしれない」

 切迫した雰囲気が伝わったらしい。タカシさんはやや固い表情でうなずいた。

「あの、彩」

 さすがに状況を共有しておこうと思い、声をかけたわたしに、彩は懐中時計を右手に戻しながら答える。

「昨日、今来た道を歩いてたとき、かすかな気配を感じたんだ。タカシさんのものとよく似てたから、勘違いかと思ったんだけど、どうやらそうじゃなかったみたい。夫婦は似るっていうしね」

 言われてみれば昨日、自由奔放なタカシさんについてこの道を散策する途中、彼女は不思議そうに小首をかしげていた。

 その気配が、もしもシズヲさんのものだったとしたら――

「沙那、フードしっかりかぶって。人の気配がするから」

「あっ、うん」

 彩の指示に、わたしはフードを目深にかぶり直し、

「タカシさんも、行きますよ」

 続けて言われたタカシさんは、ぴんと背筋を伸ばす。

 そして、三人並んで玄関の前に立つ。

 彩が静かに目をつむると、引き戸が音もなくひとりでに開いた。魔力を使ったのだろう。

 それなりの理由があるとはいえ、人様の家に忍び込むのは少なからず抵抗があった。だが、そんなことを言っている場合ではない。

 彩がもう一度目で合図を送って、引き戸がひとりでに閉まったのを確認してから、息を殺して玄関を上がり、暗い廊下を忍び足で進む。

 中程にある和室の前を通りかかったとき、彩の手の中の懐中時計が、より激しく点滅し始めた。まるで、「ここだよ」と伝えるかのように。

 彩とわたしは顔を見合わせてうなずき、彼女はまた目を閉じる。

 襖がゆっくりと開いて、恐る恐る中を覗くと――

 畳の中央に敷かれた布団に、白髪のおばあちゃんが横たわっていた。

「シズヲっ!」

 その姿を認めるや否や、半透明のタカシさんが枕もとへ飛んでいって、崩れるようにひざを折る。

「だいじょうぶか……?」

 尋ねた声は、か細く、押し寄せる感情に震えていた。

「タカシさん……?」

 訊き返したシズヲさんの声は、もっと弱々しい。

「あら、ひょっとして迎えに来てくれたの? それとも、恨んで呪いに来たのかしら。ワタシが、あなたを病院に置き去りにしたりしたから」

「違う、違う。置き去りにしたのは、ワシのほうだろう?」

 いやいやする子供のように首を振りながら言うタカシさんに、シズヲさんは愛おしげにくすりと笑う。

「まぁ、なんだって構わないわ。どのみちワタシも、もうすぐそっちへいくんですもの」

 シズヲさんの何気ない一言。加えて、普通の人間には見えないはずのタカシさんの姿を認識していること。彩が彼女の気配を察知したこと。

 これらの事実が暗示する未来に、ヒリリと胸の奥が痛む。

 しかしすぐに思い直した。

 ふたり揃って同じ場所へ旅立つ。それは彼らにとって本望だったはずだと。

 ――後悔なんかないって言っとろうがっ!

 たぶん、タカシさんは本当に後悔なんてなかったのだ。愛する人のそばで死ねず、置き去りにしてしまったこと以外は。

 頑固なおじいちゃんの未練は、偶然にも「再会」に関するものだったというわけか。

 そんなことを考えていたら、

「沙那も、消えるつもりなら一度見ておくといいよ。人が、人じゃなくなる瞬間を」

 隣に立つ彩が、ふと、わたしの心を読んだように言った。

 思えば、亡者をちゃんと見送るのはこれが初めてだ。

 人が人じゃなくなる瞬間。

 言葉だけでは想像もつかないけれど、その重みだけは分かる。

 記憶から抹消されるとはいっても、わたしもおそらく同じような道をたどるのだ。

 彼女の言う通り、決意の固さを確かめるには、いい機会かもしれない。


 それからタカシさん夫婦は、月明かりだけが照らす部屋の中で、ずいぶんと長い間、ふたりの時を分かち合っていた。

 ただ黙って、本当はまだ握ることのできない手を握り合い、静かに見つめ合っている。

 聞こえるのは、シズヲさんの、すこし苦しげでかすかな息遣いだけ。

 穏やかに流れる空気を感じながら、出入り口からそんなふたりを見守るうち、気づけば、わたしも彩もその場に腰をおろしていた。

 そうして、だんだんとまぶたが重くなり始めた頃、

「もうすぐだね」

 彩がぽつりと呟いて立ち上がる。

 わたしもはっとして腰を上げた。彼女の手の中の懐中時計を覗き込むと、点滅はやみ、光もかなり弱まっている。

 これは、もしかして……

 そう思った直後、細く続いていたシズヲさんの呼吸が、ゆったりと止まった。

 同時に懐中時計は光を失い、彩はすっと蓋を閉めて腰にさげる。

 やがて、シズヲさんの体から半透明の分身が離脱し、泣きそうな顔でほろりと微笑んだ。

 きっと、タカシさんと「同じ」になったのだ。

 何も言わずふたりが抱き合うと、やわらかな光で室内が満たされた。

 淡く白い光に包まれて、きらきらと溶けるように消えていくふたり。

 ――……ず、ちぃ……ず、を。

 初めて会った日の夜、タカシさんは寝言で、シズヲさんの名前を呼んでいたのかもしれない。

 彼らはいったい、どれほどこの瞬間を待ちわびていたのだろう。

 そのとき、彩からそっとハンカチを差し出されて初めて、自分が泣いていることに気がついた。

 ありがたく受け取って、目尻を拭う。わたしが泣くのはお門違いかもしれないけれど、止められなかった。

 悲しいわけじゃない。ひたすらにきれいで、ほっとしたから。

 ただ、それだけだった。

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