第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑩

 桜雪にはああ言ったけれど、今朝の靴は昨日の金色の靴とは別の物だ。

 そもそもあの布の靴で、部屋の外に出ることはない。朝、これから履く僕の室内履きに、小石が偶然紛れ込む事はそうそうないと思う。

 だとしたならば、誰かが意図的に、あの靴の中に入れたのだ。

 それが可能なのは尚服女官達、つまり茴香達、衣装や装飾品などの準備や管理を行う女官達だ。

 でも──ふと、朝の光景が頭をよぎる。

 僕がまどろんでいる時、絶牙は何をしていたんだろう?

 彼は僕の靴を手にしていた。そして僕に声をかけられ驚いていた──多分。

 あの時彼はいったい何を?

「…………」

 かんがんとして『翠麗』に仕える彼は忠実で、親切だ。でも僕は本当の翠麗じゃない。

 彼は武官の家系、僕はしようふくといえども文官の家系。政治の上でいつも反目し合っている武と文だ。そんな彼が僕のようなものにかしずく事に、何も感じないとは思いがたい。

 とはいえ彼には役目がある。

 それはきちんとこなしているのだろう。現に僕にも彼は頼もしい人だった。

 だけど──それ以外では?

 それに翠麗だ。彼女が逃げたせいで、今僕も彼らも窮地に立たされているのだ。

 僕ですら、彼女を憎いと思った。だったら彼だってそう思わないとは限らない。

 茴香だって石を仕込む事が出来ただろうし、朝着替えの時に、あの布靴を僕に差し出してきたのは彼女だ。

 持ち上げた時に、中で転げ回る小石に本当に気がつかなかったのだろうか?

「……こんな所、来るんじゃなかった」

 思わず恨み言が洩れた。

 翠麗の為だけでなく、勿論自分達の為でもあった。彼らも今は僕にすがるしか方法はないだろう。

 でもそれはそれとして、翠麗の事は憎いだろうし、僕の事だってそんな好意的に受け止められるはずがないじゃないか。

 あの厳しすぎる指導も、ひどい食事も、小石のような陰湿な悪戯いたずらも、そう考えたらつじつまが合うような気がした。

 いっそ僕も逃げてしまえば良いのだろうか? 翠麗のように。

 高りき様や父は困るだろうし、僕達は罪人として追われることになるだろう。

 ただみんなが不幸になるだけだ。自分だって。

 そうやってもんもんと、寝台の上でくらい思考にとらわれているうちに、いつの間にか僕はまたうとうとと眠りについていたようだ。

 夢の中で、僕は翠麗と迷蔵戯かくれんぼをして遊んでいた。不思議と途中で夢だと気がついた。

 夢だとわかっていても、僕は悲しい。だっていつも迷蔵戯の時、僕は翠麗を見つけられなかったから。

 どんなに必死に探しても、いつだって翠麗は誰より隠れるのが上手うまかった。

 そうやって見つからない翠麗に、鬼の僕が毎回最後にわんわんと泣き出して、ようやく翠麗は僕の前に姿を現すのだ。

『ごめんね、小翠麗』

 そう言って僕を優しく慰めながら、彼女は微笑んでいた。

「……何処にいっていたのさ、ねえさん」

 そうささやくと、彼女の笑みは更に深まった。

『ごめんね』

 謝りながら、彼女はわらった。


 ──デモ、アナタニ、ワタシハミツケラレナイワ。


 くすくす、くすくすと彼女は嗤う。

 れいで優しい、僕の姐さん。彼女だけが僕の唯一の家族のように思っていた。

 でも本当は違ったんだろうか? いったい誰を信じたら良いんだろう?

僕はもしかしたら、誰にも愛されていなかったのかもしれないと、自分の価値すら見失ってしまったような、そんな気持ちになっていた。



 人の気配に慌てて飛び起きると、そこにいたのはあんあんだった。

「わっ」

 僕があんまり焦っていたので、彼女も驚いてしまったんだろう。用意していたお茶をこぼしそうになっていた。

「あ……貴女あなただったの、杏々」

「すみません、起こしてしまいましたか?」

 申し訳なさそうに彼女は言った。

「いいえ……もう起きなければと思っていた所よ……ありがとう。お茶はうんと熱くしてね」

「わかってます。うんと熱くですね? でも良かった。もし起きてのどがカラカラに渇いていたら、お苦しいだろうなって思ったんです」

 そこまで言うと、彼女は「それに」と小さく言った。

「これです、華妃様」

 そう言って杏々はそっと声を潜めると、自分の懐から、何やら包みを取り出した。

りんむしもちです。海松子松の実胡桃肉くるみも入っているから、お体にも良いと思うんです」

 そう言って彼女が差し出してきたのは、林檎や胡桃肉などと米粉を一緒に蒸したお菓子だった。

「今、女官達の間ですごく流行はやってるんですよ。屋台で人気のお菓子なんです」

 みんなで食べるようにと、各自に供されたものだったが、それを食べずに我慢して持ってきてくれたらしい。

「そんなに美味おいしいの?」

「ええ。それがしゆうめいさん、西の長湯の屋台の男性の事が気になってるみたいで、沢山頼んで彼の気をこうとしたみたいなんですよ」

「秋明が?」

「あ、も、勿論秋明さんだって、その方とどうこう……って事はないでしょうけど、でもその方に会いたくて、沢山お菓子を買ってみたら、それがあんまり美味しくて。だからみんなに配ってくれてるんです」

「でも……じゃあこれは貴女のお菓子だったのではないの?」

「いいんです。華妃様、今日は薬湯以外何も召し上がっていらっしゃらないし、少しでも喜んでいただきたくて」

 年齢は多分、僕とほとんど変わらないだろう。

 まだあどけなさの残る顔で、にっこり笑う杏々に、胸がきゅっとなった。

 ここで年齢の近い人は少ないというのは勿論だけれど、こんな風に話をしてくれる人もいない。みんな華妃には、楽しげに話しかけてはくれない。

 でもせっかくのお菓子も、今はなんとなく食欲がなかった。

「食後にいただいてもいいかしら? 苦手なおかゆの口直しにしたいわ」

「ええ是非! でも華妃様、お粥も苦手なんですか?」

「そうね、薬湯もだけれど、が苦手なの」

「ああ、両方に入ってますもんね……でもそれ、言えば抜いてもらえるんじゃないですか? お薬は無理かもしれませんけれど、お粥だったらなくてもいいと思うんですけど」

「……え?」

「え?」

 僕達は互いに不思議な表情で顔を見合わせた。

よう貴妃様なんて嫌いな物をお出ししたら、それだけで怒ってしまわれるのに、こう華妃様は我慢されるんですね。でも嫌だってちゃんと言えば、抜いて貰えると思いますよ?」

 どうして言わないんですか? と、杏々はさも不思議そうに言った。

「確かにお体を気遣ったお粥ではありますけれど、食べて苦しい物を無理に食べられなくて大丈夫ですよ。ちゃんとちゆうぼうたいが、他の食材を考えてくださいますから、我慢しないでおつしやったらいいと思います」

「そうね……そうよね」

 言われてみたらそうだ。なんだか我慢しなきゃってずっと思っていた。

 でも同時に、そんなわがままを言って良いものかという、自信のなさが僕の心でくすぶる。

「ではそのように、厨房と太医にお伝えしておきます」

 そんな戸惑う僕の後押しをするように言ってくれた。

「あ……お願い、します」

 おずおずとうなずくと、杏々はまたにっこり笑った。花が咲いたみたいだと思った。

 そうして杏々がれてくれたお茶を飲み、僕は外を見た。今日も天気が良い。

 もうすぐ夏が始まると、途端にぐずぐずした天気になってしまうけれど、今は春の優しい日差しが庭に差し込んでいる。


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