第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑪

 僕は不意に、あの中庭で会った麗人の事を思いだした。

「ねえ杏々……『ドゥドゥ』さんという方を知っていますか?」

 何気ない問いに、杏々がびっくりしたように僕を見た。

「え、あ、だ、大丈夫ですよ! お茶にも、お菓子にも、毒なんて入ってませんから!」

「毒?」

「え?」

 慌てる杏々と、また不思議に顔を見合わせる。

「あの……だって、『ドゥドゥ様』って……つまり毒妃様の事ですよね?」

「毒妃……」

「……もしかしてご存じありません?」

「あの……あまり……」

 そう困り顔で言う僕に、杏々はちょっと首を傾げて見せた。

 しまった、高華妃なら当然知っているべき人だったのだろうか。

「でも確かに不思議な方ですよね。私もそんなに知ってるわけじゃないですし。多分高華妃様と同じくらいですよ」

 内心慌てた僕をしりに、どうやらそれはそれで納得してくれたらしく、杏々は「うーん」と小さくうなった。

「確か毒妃様は、後宮の──えきていきゆうの外れにお住まいのお妃で、位は、しようほんの『じん』。元々陛下のお毒見役だった女性が、陛下の代わりに毒を飲んで亡くなられたので、のこされた幼い毒妃様を哀れと思って、後宮にお妃として招き入れられたんです」

 やはり妃の一人だったのか──僕は何故だか少しだけガッカリした。

「でも、お毒見役のお腹の中で、赤ちゃんの頃にたくさん毒を浴びて生まれてきたせいで、傍に行くと空気まで毒に変わってしまうって聞きました。触った物も全部毒に変えてしまうって」

「毒に? 触れただけで?」

「はい。だから当然陛下のちようもなければ、他のお妃のところにいらっしゃるのもまれなことなので、実際にお会いした事のある方は少ないかと思います──現に高華妃様もよくお知りにならないわけですから」

「ええ……そうね」

 でもあの時、彼女は花を抱いていたし、僕も普通に息をした。

 布越しではあるものの、彼女は僕に触れたはずだ。

「でも……その毒妃様、今は同じく華清宮で療養中っていう噂を聞きました。高華妃様が直接お会いになるような事はないと思いますけれど、よく気を付けてくださいね」

「え、ええ! そうね……気を付けるわ」

 でももう、既に会ってしまっているんだけど……それにもう一度会えるなら、会ってみたいと思う。

「あ!」

 その時、丁度部屋に入って来たういが声を上げたので、杏々がとつに林檎の蒸餅を隠そうとした。

 でもそれを見逃さずに、茴香は杏々から蒸餅を取り上げてしまった。

「だから、お毒見をちゃんと通さないものは駄目だって言ってるじゃないですか!」

「このくらい良いと思うのだけれど……」と言ったものの、茴香は「駄目です」の一点張りだ。

「きまりはきまりです。これはその中でも、絶対に破ってはいけないきまりの方です」

 そう言うと、茴香はさっさと杏々を追いだしてしまった。

 表情がクルクル変わる、小犬のように愛らしい杏々。せっかく話が出来て楽しかったのに……。

「お目覚めでしたら、新しい部屋履きをお履きください……ですが、それよりもお加減がよろしければ、久しぶりに庭を散歩するのはいかがかと、おうせつさんが」

「散歩? え……良いんですか?」

「あ──ええと……高華妃様は朝、足を痛められてしまったので、でしょうが、そのかわり絶牙がお供してお支えしますので」

 わざわざ周囲に聞こえるように、若干芝居がかった口調で、茴香が言った。

 つまり、すいれいのようにしゃなりしゃなり歩けない事は、足の怪我を理由にしたらいいという事なのか。

「それは……確かに……気分転換にうれしいです……わ」

 ついつい翠麗である事を忘れかけて、慌てて口調を正す。

 散歩は嬉しくないと言えば噓になる。とはいえ、朝のことを思うと、素直に絶牙を頼りにくいし、それは茴香もだ。

「足が痛いなら、やめてもいいと思いますけど……でもせっかくだから、息抜きをされた方が宜しいんじゃないかって」

 もしかしたら、遅めの朝の罪滅ぼしとか、そういう事なのだろうかと、ふと思ったりもした。もしくは夕べからずっとふさぎ込んでいる僕を心配してくれているのかもしれない。

 桜雪も、茴香も、ぜつも、こうなったらどこまで信用していいかわからないけれど。

 とはいえ、何か出来るとしても、またさいな嫌がらせ程度だろう。

「……わかりました。では、そのように」

 そう僕が言って頭を下げると、茴香は「わかりました! すぐ用意します!」と急に嬉しそうに言った。

 ああそうか、外に散歩に出るという事は、つまり『着替え』が待っているのか……。


 準備しているうちに、日が暮れてしまうのではないかと心配した着替えだった、とはいえ『翠麗』は本調子ではない。

 簡単に衣を足して、髪を結って終わりの予定だ。

 こうりんだけでなく、杏々や秋明などの女官まで動員し、いつも以上に大騒ぎで僕の身支度は整えられた。

「ンンンン──! やっぱりここは高華妃様のお顔が明るく見えるように、淡い桃色を……いや逆にもう少し濃い色を……ぐぬぬぬ……」

 我を忘れたような調子で言う茴香だったが、驚いているのは杏々だけで、翠麗の女官達は慣れたものなんだろう。(僕はまだ当分慣れる気がしない)

「駄目だわ、色が足りない! 足りないのよ! ちょっと衣装箱を見てくるから、他のお支度を整えていて!」

 そう言って茴香が部屋を飛び出す。とはいえ、支度はもうほとんど終わっているし、後は髪を装飾で飾り、肩布をまとうだけだ。

「他の者達は、自分の仕事に戻って大丈夫ですよ」と巧鈴が言う。

 僕の隣から離れる時、こそっと杏々が「伝えておきました」とささやいた。

 そうして部屋を出る前に、また僕ににっこり笑ってみせた──本当に可愛い人だ。

「…………」

「高華妃様……少しおせになったせいか、肩の位置が上がったような気がいたしますね」

「え?」

 ついつい杏々の余韻に浸っていると、巧鈴が不思議そうに言う。

「気のせいかしら……どうです? 脇の辺りなど、窮屈なところはありませんか?」

 幾ら似ているといっても、やはり僕は男の身体だ。普段から着替えを手伝う巧鈴は、どうやらその違和感を覚えているようだ。

「そんな事はないと思うけれど……」

 どうにかして誤魔化さなければと、必死に言葉を考えながら、言われるままに腕を大きく動かしてみた。

 言われてみると、確かにはっきり言って肩や脇の部分が少し窮屈な気が──。

「痛っ」

 その時、脇のすぐ下に痛みが走った。

「華妃様?」

「な、何か刺さって……っ!」

 慌ててもがく僕に驚きながらも、巧鈴が衣を探る。

「……華妃様」

 そうはくになった顔で、僕を見る。

 彼女がそっとてのひらを開くと、そこには折れた針が載せられていた。

「こんな……こんな事、あってはならないことです。万が一にもこんな事があって、妃嬪様達を傷つけないように、針は厳重に管理されています。なのにこんな……」

「…………」

 僕の衣は、全て茴香が縫い直してくれているはずだ。だからこの針の主が誰かと言えば、きっと恐らく彼女だろう。

 不意に頭痛がした。

 もちろんミスはあるだろう。大急ぎでお直しの作業をしてくれているのだから。でもそうじゃなかったら? だとしたら……やり方があんまり陰険すぎるじゃないか……。

「……いかがされますか」

「いいわ……後で桜雪に伝えておきましょう」

「それで本当に宜しいのですか? これは許される事ではありませんよ」

「そうね……そうなんだけれど」

 でもどうしようもない。せめて高りき様が会いに来てくださったら良いのに──。

「……ねえ、巧鈴」

「はい?」

貴女あなたは真面目な方だと聞いたから、少しだけお願いをしても良いかしら?」

 僕が言うと、巧鈴はすぐに「なんなりとお申し付けください!」と床に額をつけた。

 僕はすぐさまづくえに向かい、茴香が戻ってきては困るからと、急いで高力士様にお会いしたいこと、窮地にある事をしたため、そして机に挿してあった、赤い花を一論添える。

「一つは、この針のことはわたくし達だけの秘密にしておくこと。そしてどうにかこの手紙と花を、できるだけ人に──特に桜雪達には知られないように、高力士様にお届けできないかしら」

 それを聞いて巧鈴は真剣な面持ちでうなずくと「わかりました」と言った。

「お忘れですか? 私の一族が馬を扱っている事を?」

「え? あ……そうだったわね。そういえば……」

 すみません、知りません──なんて言えるわけもないので、そう言ってごめんなさいと謝ると、ちょっと寂しそうに笑った。

 これでは女官に興味のないあるじになってしまう……。

 とはいえ彼女は、そこまで気にしない様子で、少し思案するように宙を見た。

「丁度ここの馬丁においがおります。真面目で私の言う事をよく聞く子です。頼めば理由も聞かずに動いてくれるでしょう。宦官様に確実に届けてもらう事にいたします」

 それでいかがでしょうか? と言われ、僕は何度も頷いた。

 丁度そのとき、ぱたぱたと茴香が戻ってくる気配がした。どうやら絶牙と桜雪も一緒みたいだ。

 目配せを一つだけ交わして、巧鈴が部屋を後にする。不安で全身から汗が噴き出た。

 それでもあの手紙が高力士様の所に届けば、後は確実に彼が僕を救ってくれるだろう。

 そうして僕は遅い昼食のおかゆを胃袋に流し込み(今日はまだ、残念ながら苦手な味のままだった)、絶牙と庭に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る