第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑫
午後の
翠麗は、僕が幼い頃から、夕暮れ前のこの時間が好きだった。
こんな風に庭をぼんやり、一人で眺めるのを何度も見ていた。
その時の
生家とは違う庭を、翠麗の姿で、彼女と同じようにぼんやりと眺める。
翠麗はいつも何を考えていたんだろう。もしかしたら、時々泣いていたのかもしれないと、何故だかふと思った。
だけど実際に涙を流したり、悲しい事を翠麗は口にしたりした事は一度だってなかった。
きっとここの場所に立つには、やはり強くなきゃいけないのだろう。
勿論高力士様は手紙を読めば、きっと助けてくださる。
でもせめてそれまで、不条理な事に心折れていないで、僕も耐えようと改めて思った。
たとえ誰を、何を本当に信じて良いかわからないとしても。
部屋に戻ると、程なくして杏々がお茶の用意を持って現われた。
「今日はもう下がってしまうので、高華妃様に最後のお茶をと思って……
無邪気に笑う杏々の声を聞くと無性に安心して、思わず僕も微笑んでしまうと、杏々は僕の表情に、更に笑みを深めた。
「ええ、お茶はうんと熱くしてね、ゆっくり飲めるように。貴女のお茶は
「本当ですか? でも実は私も、なんだか
姐も身体があまり丈夫じゃないので、と杏々は言った。
よく寝台から起きられない姐にお茶を
「だったら、少しだけわたくしの話し相手になってくれるかしら」
「やっぱり……高華妃様、なんだかお寂しそうだったから、私で
杏々は僕の分だけでなく、もう一杯、自分の分のお茶を淹れた。それから僕達は少しだけ、他愛ない雑談を楽しんだ。
それにしても、穏やかな空気や感情を共有する相手がいるだけで、こんなにも心が軽くなる物なのか。
なんだか急に、
気がつけばあっという間に時間が経って、暗にそろそろお開きにしてくださいというように、絶牙が部屋に入ってきた。
なんとなく邪魔されたような気分だ。だけどこの後も、夜の訓練が待っている。
杏々を部屋から見送り、残ったお茶を飲んでいると、絶牙は僕が今夜着る寝衣に香を
「……この香りがするのに、翠麗がいないのは、いつも不思議な気持ちになります」
思わずポツリと
手慣れた所作の中に、彼が長く翠麗に仕えていたことが
せめてもう少し、彼と会話が出来たならいいのにと思ったけれど、もしかしたら物言わぬ彼だからこそ、翠麗は彼を重用したのかもしれない。
少なくとも、夜の手前のこの静けさは、翠麗の好んだものだと思う。
最も、僕にとってこの時間は嵐の前の静けさで、それじゃあそろそろ動きやすい服に着替え、あの恐ろしい修業に身を
がたん、と騒々しく扉が開いたかと思うと、そのまま倒れ込むように茴香が現われた。
「小翠麗……さま」
真っ青な顔は
「茴香!?」
慌てて駆け寄った絶牙が彼女を抱き起こすと、茴香は震える手で僕の
「どうしたんです!? 大丈夫ですか!?」
その明らかに異常な姿に恐怖を覚えた。彼女は幾分焦点の合わない目で僕を見て、そして
「良かった!? どうしたんですか!?」
「茴香!」
ほとんど同時に桜雪の悲鳴のような声がした。
扉の所で彼女は驚いた表情で、そしてやっぱり茴香ではなく、僕を見た。
「翠麗様はご無事なのですか!?」
「僕は、どこも、どうにもなってないですよ! それより、茴香が!」
「わかっています。絶牙、あの方をお呼びして
茴香は、脂汗をかきながら、身を丸めて苦しんでいる。
「寝台に寝かせましょう」
『あの方』が気になりつつも、絶牙は急いで部屋を出て行ったので、僕は桜雪に言って、二人で抱えるようにして、なんとか茴香を寝台に横たわらせた。
「本当に、翠麗様は大丈夫でいらっしゃいますのね?」
明らかに大変なのは茴香なのに、また桜雪は僕を心配した。
「だから、なんで僕なんですか!」
思わず
「茴香……毒ですね。何が原因ですか?」
「毒?」
思わず復唱する僕に、桜雪は頷く。
「たぶん……
茴香が
「え? 蒸餅……? まさか、僕が
弱々しく彼女が
「そ、そんな、あのお菓子に毒が入っていたって言うんですか!? でも他の物の可能性だってあるじゃないですか!」
そうだ、茴香を疑うわけではない。とはいえ僕が貰ったお菓子が原因だなんて言い切れないはずだ。だのに、桜雪が首を横に振った。
「……翠麗様。私と茴香は、口にする物を決めております。万が一のために──そして、
「え……」
「私が平気で、茴香だけが倒れたという事は、この子だけが飲食した物があるという事ですわ」
寝台の横に
「じゃあ、それが蒸餅だったって……」
でもそんな
「それに毒と決めるには早すぎませんか? 病という可能性だってあります」
とにかく太医に診て貰った方が良いのではないだろうか?
でももし本当に毒だったら……と考えると、恐怖に指先が震えだした。
毎日世話を焼いてくれる人が、毒で死んでしまうかもしれないのだ。しかもその毒は、本当は僕が食べるはずだったかもしれないなんて。
そもそも……そうだ、なんで桜雪達は、こんなに毒に備えているんだろう?
これじゃあまるで、本当にいつ毒を使われてもおかしくないみたいに……。
「まさか……翠麗はそんなに、常に毒に
「……それは、少し違います。まったく考えないでいらっしゃったとは思いませんが、そうではなかったと──」
言いかけて、けれどそこで話を強引に終わらせるように、桜雪が立ち上がって、扉の方を見た。
「わざわざご足労くださり、ありがとうございます──毒妃様」
恭しく女人拝した桜雪が言った。
そこには月の下で見た、幽玄な貴人が立っていた。
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