第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑬


 ぜつに連れられてやってきたのは、間違いなく昨日、僕を毒蟻から守ってくれた、あの美しい貴人だった。

「あ……」

 あんあんが教えてくれた、皇帝の命を救ったお毒見役の忘れ形見で、触れた物を全て毒に変えるという後宮の『美人』。月下の幽鬼。

あいさつは不要。診て欲しいのは誰じゃ?」

『ドゥドゥ』さんは、凜とした声で言いながら僕を押しのけ、ういの横たわる寝台の前に来た。

「原因はわかるかえ?」

 茴香の目や、手首を触ったりしながら言った。彼女は特に、茴香の肌を気にしているようだった。

りんの蒸餅と聞いています。他の物は私も一緒に食しておりますので、恐らく間違いはないかと」

 茴香の代わりに、おうせつが答える。

「蒸餅か。苦みなどはなかったか? 食べた時に違和感は?」

「い……いえ……」

 その質問には、茴香が自分で答えた。

「なるほど……だがおうや下痢はしていないし、脱水もないようじゃ……ふぅん、呼気にあの特有の臭みもない。まずは一安心。どうやらヒ素ではなさそうじゃ」

 茴香のぜいぜい吐く呼気を確かめ、ドゥドゥさんが言った。

 それを聞いて、桜雪はまずはほっとしたように息を吐いた。ヒ素は猛毒だし、わずかな量で人の命を奪ってしまうのだ。

 安堵したのもつかの間、それまで苦しそうにしていた茴香が、がくりと脱力する。

「茴香!?」

「案ずるな。痛みで意識を失っただけじゃ」

 寝台の横にだらりと腕が垂れ下がって、僕はひどく慌てたけれど、「静かにせよ」とたしなめられてしまった。

「だがけいれんも重度ではないし、心の臓も弱った音をしていない。一晩は苦しいだろうが、これならば恐らく死ぬことはないだろう。であればいっそ、眠っている方が良い。痛まないで済むし、回復も早かろう」

 そこまで言うと、彼女は「炭だな」と言った。

「炭、ですか?」

「そうじゃ。目を覚ましたら炭を湯にといて薄め、少しずつ飲ませるとよい……とはいえこう華妃の所は人手も少なかろう。よいわれの部屋で診よう──それで良いか?」

「勿論でございます。よろしくお願いいたします」

 桜雪が床に額をつけて拝した。

「後は本人次第じゃな。吾の見立てでは、二晩もすれば動けるようになるであろう」

「じゃあ……茴香は助かるんですね……」

 あんまりほっとして、僕は軽いまいを覚え、そのまま床に座り込んだ。

 小石だとか、針だとか、もしかしたら陰湿な嫌がらせをされていたかもしれない。でも僕は自分で思っていた以上に、茴香の事を好ましく思っていたらしい。

「……本当に、蒸餅が原因なんでしょうか? 食べ物以外という事は?」

 それでもやっぱり信じられないのは、毒が杏々の蒸餅に入っていたという事実だ。

「後は調べねばわからぬ。毒によっては、症状が遅れて出る物もあるゆえ。じゃが、はらわたが痛んでいるなら、やはり毒は腹の中に入ったのだろうね。吸い込んだのであれば鼻とのどに、触れたなら皮膚に症状が現われる」

「…………」

 でも時間差だとしたら、他は同じ物を食べているという桜雪が、平気である筈がないのか。

 じゃあ……本当に杏々が、僕に毒を──。

 ショックで思わず顔を覆うと、桜雪が優しく僕の肩に触れてきた。

「でも……貴方様が召し上がらなくて、倒れたのが茴香で本当にようございました」

 彼女がしみじみと言った。なんてひどい事を言うのかと思った。

「そんな……そんな! ちっとも良くなんかないですよ!」

「いいえ、良いのです! 高りき様は、高華妃様をお守りする為だけに、私達をここに配しているのです!」

「だけど……」

 だけど僕は翠麗じゃない。僕は──。

「なに? どういうことだ? この部屋に高華妃はおらぬであろう?」

 そんな僕達のやりとりを遮る様に、茴香を診ていたドゥドゥさんがけんしわを刻んで顔を上げた。

「高華妃……あの方は本当にかぐわしいかおりゆえ、一度げば吾はたがわぬ。だが部屋に居るのは二人とも高華妃の女官。そしてそこなるはかんがん──これも香はまとっているが、宦官の臭いは隠せまい。後はもう一人、確かに華妃の香をきしめているが……」

 そう言ってドゥドゥさんは、鼻を鳴らしながら、僕の胸元から首筋を嗅いだ。

「え? あ、ちょ、ちょっと──」

「ふぅむ? なんじゃこれは。発達したかんせんの臭い……きっと脂肪より筋肉の多い身体なのだろう。あまり嗅いだことのない臭いだが……おそらくは若くて代謝の良い……けれど宦官ではない、これは……?」

 恥ずかしくて逃げたい僕を、両手で押さえつけるようにして嗅いで──そして彼女は唐突に僕を突き飛ばすようにして離れた。

「あ、あの……?」

「まさか……男!?」

 ぞっとした。まさか、本当に臭いでバレたりするのか? 慌てて自分で自分の臭いを嗅いだけれど、僕の身体は今、翠麗の香の匂いしかしないのに。

「そなた……この前の蟻の男ではないか。何故ここに? 華妃様はいずぞ」

「蟻の男?」

 はっと気がついたドゥドゥさんが言ったので、桜雪がげんそうにまゆひそめた。

 さっと絶牙が目をそらしたので、桜雪は更に眉間に深い皺を刻む。

「……ドゥドゥ様、これには事情があるのです」

 と慌てて桜雪が説明しようとした。けれど彼女はさっと手を挙げてそれを制する。

「ああ、言わなくて良い。わざわざ吾までここに呼びつけて、訳ありなのは百も承知。ただ知りたいのは、この『男』が、本当に安全かどうかじゃ……そなた、まさか高華妃の……その……情──」

「弟です!!」

「翠麗様……」

 結局全て言ってしまうのか……というように、桜雪が額を押さえた。

 でももうバレてしまっているんだから、下手な言い訳は意味が無いだろう。

「僕は高ぎよくらん……高華妃、翠麗は僕のあねです。彼女は姐であると同時に、母親のように僕を慈しんでくださったのです」

 僕は幼い頃から姐によく似ていたこと、今は姐と同じ背丈になった事を彼女に伝えた。

「そして姐は──姐は……」

「成程、せたか──それはご本人の意志なのか?」

 皆まで言わなくても良いと遮る様にドゥドゥさんが言う。

「おそらくは……」

 残念ながらと言うべきか、幸運にもと言うべきか。

「姐の手紙には危険はないと。そして必ず戻ると書き記されておりました。だから僕は、姐の名誉を守るために、一時的に翠麗としてここにいるのです。ですから、万が一にも姐の不名誉につながるような事はいたしません」

 そもそもいくらまわりが女性ばかりの後宮とはいえ、姐の格好でらちなことなど出来る訳がない。

「…………」

 そうしっかり断言すると、ドゥドゥさんは真顔のまま、また僕のにおいを嗅ぐように鼻を鳴らした。

「……知っておるか? 人間は噓をつくと、身体の匂いが変わるのだ」

「え? ほ、本当ですか?」

「人の心にも毒がある。噓をつくと、汗と共にそれが染み出してくるのであろう」

 でも僕は本当に噓は言っていないし、彼女のこの話も、もしかしたら僕を試していたのかもしれない。

 彼女はフンフン、と鼻を鳴らしてから、身体を離した。

「噓は申し上げておりません」

 もう一度きっぱりと告げると、彼女は「そうじゃな」とうなずいた。

「ですが毒妃様。どうかなにとぞ、この事はご内密に……」

 桜雪が頭を深く深く下げる。

「案ずるな。そもそも吾の話など、聞く者も、信じる者もおらぬ。吾は後宮の毒そのものじゃ」

 僕はふと、杏々が『毒妃』をおそれていた事を思いだした。

 まるで彼女の存在を、れ物のようにおびえていた。

 でも彼女は、確かにひやりとした容姿をしている上に、少し怖そうな雰囲気がある。

「……女官の話では、貴女あなたは吐く息に毒を持ち、触れるだけで物を毒に変えてしまうと」

 それを聞いて、ドゥドゥさんは一瞬けいべつするような目で僕を見た。

「吾が? まさかそのような事を真に受けるとは! だが吾は確かに毒にさかしく、また大抵の毒は吾を害さぬ。母のはらの中で、髪の先までたっぷりと毒を浴びたがゆえにな」

「そんな……毒が平気なのですか?」

「ですから後宮内で毒に倒れる者があると、こうやって毒妃様にお力をお借りする事があるのです」

 驚く僕に、桜雪が言い添えた。

 だけれどもそこで、さっきからずっと僕の中で渦を巻いていた疑念が、くっきりと形を見せた。

「こうやって……って、どういう事ですか?」

 僕が──華妃翠麗が、後宮の外である華清宮で療養できるのは、ごく特例の事だと聞いている。

 それが許されたのは、翠麗の後見人が高力士様であること、そして華妃という、仮にも一時陛下のちようあいを賜った正一品の妃だからだ。

 でもここにもう一人、後宮の外で過ごすことを許されている『毒妃』という女性は、療養が必要そうには見えず、いまだ陛下の寵なく、位も正四品。

 翠麗にですら特別なおんちようを、どうしてドゥドゥさんも許されているのか。

 何故桜雪達はこんなにも毒に念入りに備えていたのか、毒かもしれないと気がついて、すぐにドゥドゥさんを呼びに行ったのか──。

「……もしかして、翠麗は誰かに命を狙われていたのですか?」

「小翠麗様……」

 桜雪の顔に緊張が走ったのがわかった。

「だからねえさんは後宮からしつそうを!? そもそも、どうしてそんな大切な事を、僕に聞かせてくれなかったんですか!!」

 思わず声に怒気があふれ、桜雪に詰め寄りそうになった僕を、絶牙が後ろから押しとどめた。

「つまり今は僕が、狙われているんですね。本当は僕は身代わりではなく、いけにえですか? おとりだったんですか!?」

「そうではございません」

「じゃあ何だって言うんですか!」

 ただ、姐のフリをして、彼女が帰るのを待つだけだと言われた。

 後宮ではなく、陛下も他の妃嬪もいない華清宮で。

 だけど実際は女官達に怯え、最低限の自由もなく、そして毒で殺されそうになっているのだ。何が『そうではございません』だっていうのだろう?

「離してください! こんな……こんなの、もう沢山ですよ!」

 絶牙を振り払って、僕は部屋を出ようとした。どこに行けるかもわからなかったけれど、それでも今すぐここから逃げ出したかった。


「噓ではない」


 けれど、そんな僕に言い聞かせ、遮るように、静かにドゥドゥさんが言った。

「……え?」

「桜雪じゃ。この者は噓はついていない。話を聞くが良かろうよ。何故か聞いて怒るのは道理じゃが、理由も聞かずにわめくはただの一方的な蛮行であろう。それは誰かに毒を盛るのと変わらぬ」

「毒……ですか?」

「そうじゃ。毒は一方的に誰かを壊す為のもの。誰ぞを傷つけるために放つ言葉も変わらぬ──そして偽華妃。そなたに毒が似合うようには思わぬ」

「…………」

 冬の湖のみなそこのような、くらく静かな──そして優しい声。

「口は毒を飲み、毒を吐く為だけにあるわけではない。よいはまだ浅く、月も沈まぬよ。まずは話を聞くが良かろう」

「……はい」

 彼女のその低い声に、僕は毒気を吸われてしまったように頷いた。

 どこも似ている部分はないはずなのに、不意に姐に𠮟られた時のような、そんな気持ちになった。

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