第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑬
七
「あ……」
「
『ドゥドゥ』さんは、凜とした声で言いながら僕を押しのけ、
「原因はわかるかえ?」
茴香の目や、手首を触ったりしながら言った。彼女は特に、茴香の肌を気にしているようだった。
「
茴香の代わりに、
「蒸餅か。苦みなどはなかったか? 食べた時に違和感は?」
「い……いえ……」
その質問には、茴香が自分で答えた。
「なるほど……だが
茴香のぜいぜい吐く呼気を確かめ、ドゥドゥさんが言った。
それを聞いて、桜雪はまずはほっとしたように息を吐いた。ヒ素は猛毒だし、
安堵したのもつかの間、それまで苦しそうにしていた茴香が、がくりと脱力する。
「茴香!?」
「案ずるな。痛みで意識を失っただけじゃ」
寝台の横にだらりと腕が垂れ下がって、僕はひどく慌てたけれど、「静かにせよ」と
「だが
そこまで言うと、彼女は「炭だな」と言った。
「炭、ですか?」
「そうじゃ。目を覚ましたら炭を湯にといて薄め、少しずつ飲ませるとよい……とはいえ
「勿論でございます。
桜雪が床に額をつけて拝した。
「後は本人次第じゃな。吾の見立てでは、二晩もすれば動けるようになるであろう」
「じゃあ……茴香は助かるんですね……」
あんまりほっとして、僕は軽い
小石だとか、針だとか、もしかしたら陰湿な嫌がらせをされていたかもしれない。でも僕は自分で思っていた以上に、茴香の事を好ましく思っていたらしい。
「……本当に、蒸餅が原因なんでしょうか? 食べ物以外という事は?」
それでもやっぱり信じられないのは、毒が杏々の蒸餅に入っていたという事実だ。
「後は調べねばわからぬ。毒によっては、症状が遅れて出る物もあるゆえ。じゃが、はらわたが痛んでいるなら、やはり毒は腹の中に入ったのだろうね。吸い込んだのであれば鼻と
「…………」
でも時間差だとしたら、他は同じ物を食べているという桜雪が、平気である筈がないのか。
じゃあ……本当に杏々が、僕に毒を──。
ショックで思わず顔を覆うと、桜雪が優しく僕の肩に触れてきた。
「でも……貴方様が召し上がらなくて、倒れたのが茴香で本当にようございました」
彼女がしみじみと言った。なんて
「そんな……そんな! ちっとも良くなんかないですよ!」
「いいえ、良いのです! 高
「だけど……」
だけど僕は翠麗じゃない。僕は──。
「なに? どういうことだ? この部屋に高華妃はおらぬであろう?」
そんな僕達のやりとりを遮る様に、茴香を診ていたドゥドゥさんが
「高華妃……あの方は本当に
そう言ってドゥドゥさんは、鼻を鳴らしながら、僕の胸元から首筋を嗅いだ。
「え? あ、ちょ、ちょっと──」
「ふぅむ? なんじゃこれは。発達した
恥ずかしくて逃げたい僕を、両手で押さえつけるようにして嗅いで──そして彼女は唐突に僕を突き飛ばすようにして離れた。
「あ、あの……?」
「まさか……男!?」
ぞっとした。まさか、本当に臭いでバレたりするのか? 慌てて自分で自分の臭いを嗅いだけれど、僕の身体は今、翠麗の香の匂いしかしないのに。
「そなた……この前の蟻の男ではないか。何故ここに? 華妃様は
「蟻の男?」
はっと気がついたドゥドゥさんが言ったので、桜雪が
さっと絶牙が目をそらしたので、桜雪は更に眉間に深い皺を刻む。
「……ドゥドゥ様、これには事情があるのです」
と慌てて桜雪が説明しようとした。けれど彼女はさっと手を挙げてそれを制する。
「ああ、言わなくて良い。わざわざ吾までここに呼びつけて、訳ありなのは百も承知。ただ知りたいのは、この『男』が、本当に安全かどうかじゃ……そなた、まさか高華妃の……その……情──」
「弟です!!」
「翠麗様……」
結局全て言ってしまうのか……というように、桜雪が額を押さえた。
でももうバレてしまっているんだから、下手な言い訳は意味が無いだろう。
「僕は高
僕は幼い頃から姐によく似ていたこと、今は姐と同じ背丈になった事を彼女に伝えた。
「そして姐は──姐は……」
「成程、
皆まで言わなくても良いと遮る様にドゥドゥさんが言う。
「おそらくは……」
残念ながらと言うべきか、幸運にもと言うべきか。
「姐の手紙には危険はないと。そして必ず戻ると書き記されておりました。だから僕は、姐の名誉を守るために、一時的に翠麗としてここにいるのです。ですから、万が一にも姐の不名誉に
そもそもいくらまわりが女性ばかりの後宮とはいえ、姐の格好で
「…………」
そうしっかり断言すると、ドゥドゥさんは真顔のまま、また僕のにおいを嗅ぐように鼻を鳴らした。
「……知っておるか? 人間は噓をつくと、身体の匂いが変わるのだ」
「え? ほ、本当ですか?」
「人の心にも毒がある。噓をつくと、汗と共にそれが染み出してくるのであろう」
でも僕は本当に噓は言っていないし、彼女のこの話も、もしかしたら僕を試していたのかもしれない。
彼女はフンフン、と鼻を鳴らしてから、身体を離した。
「噓は申し上げておりません」
もう一度きっぱりと告げると、彼女は「そうじゃな」と
「ですが毒妃様。どうか
桜雪が頭を深く深く下げる。
「案ずるな。そもそも吾の話など、聞く者も、信じる者もおらぬ。吾は後宮の毒そのものじゃ」
僕はふと、杏々が『毒妃』を
まるで彼女の存在を、
でも彼女は、確かにひやりとした容姿をしている上に、少し怖そうな雰囲気がある。
「……女官の話では、
それを聞いて、ドゥドゥさんは一瞬
「吾が? まさかそのような事を真に受けるとは! だが吾は確かに毒に
「そんな……毒が平気なのですか?」
「ですから後宮内で毒に倒れる者があると、こうやって毒妃様にお力をお借りする事があるのです」
驚く僕に、桜雪が言い添えた。
だけれどもそこで、さっきからずっと僕の中で渦を巻いていた疑念が、くっきりと形を見せた。
「こうやって……って、どういう事ですか?」
僕が──華妃翠麗が、後宮の外である華清宮で療養できるのは、ごく特例の事だと聞いている。
それが許されたのは、翠麗の後見人が高力士様であること、そして華妃という、仮にも一時陛下の
でもここにもう一人、後宮の外で過ごすことを許されている『毒妃』という女性は、療養が必要そうには見えず、
翠麗にですら特別な
何故桜雪達はこんなにも毒に念入りに備えていたのか、毒かもしれないと気がついて、すぐにドゥドゥさんを呼びに行ったのか──。
「……もしかして、翠麗は誰かに命を狙われていたのですか?」
「小翠麗様……」
桜雪の顔に緊張が走ったのがわかった。
「だから
思わず声に怒気が
「つまり今は僕が、狙われているんですね。本当は僕は身代わりではなく、
「そうではございません」
「じゃあ何だって言うんですか!」
ただ、姐のフリをして、彼女が帰るのを待つだけだと言われた。
後宮ではなく、陛下も他の妃嬪もいない華清宮で。
だけど実際は女官達に怯え、最低限の自由もなく、そして毒で殺されそうになっているのだ。何が『そうではございません』だっていうのだろう?
「離してください! こんな……こんなの、もう沢山ですよ!」
絶牙を振り払って、僕は部屋を出ようとした。どこに行けるかもわからなかったけれど、それでも今すぐここから逃げ出したかった。
「噓ではない」
けれど、そんな僕に言い聞かせ、遮るように、静かにドゥドゥさんが言った。
「……え?」
「桜雪じゃ。この者は噓はついていない。話を聞くが良かろうよ。何故か聞いて怒るのは道理じゃが、理由も聞かずに
「毒……ですか?」
「そうじゃ。毒は一方的に誰かを壊す為のもの。誰ぞを傷つけるために放つ言葉も変わらぬ──そして偽華妃。そなたに毒が似合うようには思わぬ」
「…………」
冬の湖の
「口は毒を飲み、毒を吐く為だけにあるわけではない。
「……はい」
彼女のその低い声に、僕は毒気を吸われてしまったように頷いた。
どこも似ている部分はない
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