第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う㉕


 こうりんとそのおいが捕らえられ、厳罰に処されると聞いて、正直僕の心が痛まなかった訳ではない。

 だけどここで、すいれいは絶対に彼女に恩情は掛けなかっただろう。

 巧鈴は確かにういを傷つけたし、命が奪われるかもしれなかった。

 どんな理由があろうとも、それを許すだけの価値は存在しない──命に勝さるものは、存在しないのだ。

 わかっていても、自分と関わったせいで誰かが罰される事に、胸がざわつく。

 でもすぐに、そんな甘いことを言っている場合でないことにも気がついた。

 翠麗はまだ帰らない。そう遠くないうちに僕は後宮に行かねばならないだろう──こう華妃として。

 正体が明るみに出れば、罰せられるのは僕も、そしておうせつたちも同様だ。だから、自分のやるべきことをさねばならない。泣き言を言っている場合ではないのだ。


 僕に害がないとわかると、ドゥドゥさんは後宮に帰ってしまった。

 巧鈴を捕らえた夜の後、結局一度もあいさつが出来ないままだったけれど、後宮に戻ればその機会もあるだろう。

 それに──正直、気が進まなかった。

 あの美しくてまがまがしい人に感謝を抱くと共に、僕はやはり、彼女を畏ろしいと思っていたのだ。己を顧みず、ただ毒だけにわらうあの人を。

 彼女と何を話して良いかもわからない。


 僕はそれから毎日、必死に訓練を重ねた。

 何かに取りかれたように──いや、きっと取り憑かれているのだ、『翠麗』に。

 もちろんその毎晩の麗人修業が可能だったのは、他でもない桜雪や茴香が、嫌がるそぶり一つ見せず、何時間でも付き合ってくれたからだ。

 桜雪は相変わらず厳しかったし、茴香は、麗人の所作だけでなく、美しい衣の合わせ方、百種類を超える髪の結い方、でんの文様、より美しいまゆの描き方までこと細かに、高貴な女性が操るべき知識を、みっちりと僕にたたき込んでくれた。

 そうして花満る春から、少し寒い雨の季節を前にして、まだぬくい風が僕のうなじをらす頃、桜雪が言った。

「もう、私がお教えする事はありませんわね」と。

 気がつけば一ヶ月以上が過ぎ、僕はもう鈴を鳴らさずに歩き、美しく床に拝し、翠麗のように笑い、食事もれいれるようになっていた。

 そうなれば、長くここにいても逆に悪い噂が立つだけだ。

 いよいよ、後宮に移る時が来た。これから先は、今の何倍もの女官とかんがんに囲まれ、後宮三千人の女性達の中で、華妃として暮らさなければならない。

 後宮に移る前夜、すっかり見慣れた天井をぼんやり眺めていると、ひょっこり茴香が僕を訪ねてきた。

「小翠麗様、お茶にしませんか?」

「そうですね、頂きます──僕がれましょうか」

「えー? 小翠麗様がですか?」

 茴香が苦笑いした。笑っているけれど、本気でうれしくなさそうだ。

「なんで笑うんですか。前より少しは上手になったんですけどね……」

「まぁ、でも大丈夫ですよ。翠麗様もお茶を淹れるのはお上手じゃなかったので」

「えええ……」

 ……正直そこは、似なくても良かったのに。

「じゃあぜつ、お茶をお願いしても良いですか?」

 そうお願いするまでもなく、絶牙は茶器を広げはじめていた。

 彼はいつも、まるで僕の頭の中をのぞき込んだかのように、その時一番飲みたいお茶を淹れてくれる。

 そうして程なくして用意されたのは、僕好みの熱々のまつ茶だ。お茶はやっぱり、舌を火傷やけどするくらい熱いのがいい。

 あの日靴の中に小石を忍ばせた犯人は、やっぱり絶牙だった。

 けれど彼がやったのは、靴の中に忍ばされていた、もっと鋭い小石を取り除き、角の丸い優しい小石に入れ替えることだった。

 取り除いて、彼らが警戒している事を犯人に気がつかれないよう、できるだけ犯人の思い通りになるように、僕が少しは痛がる姿を犯人に──巧鈴に見せつける為に。

 茴香と桜雪が僕に謝る姿を見て、巧鈴は嬉しかっただろうか?

 花にも毒があるならば、後宮の花である女性達も毒をもつのだろうか……。

 でも少なくとも今、僕の周りに毒の匂いはしない。


 茴香に呼ばれて、桜雪もやってきた。

 お茶請けは、あのイワクツキのむしもち──ではなく、僕の大好きな貴妃紅だ。サクサクほろほろとして、そしてうんと辛い。

 三人でからいからいと笑いながら、それを食べているうちに、急に桜雪の目から、大粒の涙がこぼれた。

「え、どうしたんですか!?」

 そんなに辛すぎましたか? お茶が熱すぎましたか!? そうやって焦る僕達を前に、ますますこみ上げてくる涙をこらえられないように、彼女は顔を覆った。

 あの、冷静で、時には鬼のように厳しい桜雪が、だ。

「お……桜雪?」

「いえ……ただこれまで、本当によく、毎日耐えてくださいましたなと……そう思ったら、私……もう……我慢が……」

 それ以上はもう言葉にならないように、ぼろぼろと泣きはじめた桜雪にびっくりしていると、気がつけば隣で茴香も両目からだばだばと涙を流しはじめていた。

 慌てて絶牙を見たけれど、さすがに彼は泣いていなかった。

 だけど彼は僕をねぎらうように、ぎゅっと卓の上の手を握った。

 そのせいで、今度は逆に僕のるいせんが崩壊した。

 僕と桜雪、茴香は三人、顔を寄せ合うようにして、おいおいと泣いては、お互いを労い、たたえ、そしてこれからの僕達を鼓舞し合う。

 茉莉花茶の香りと、日ごとに夏を運ぶ夜の風の中。きっとこれからどんなにつらくても、この夜のことを思い出すだろうと思った。

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後宮の毒華 太田紫織/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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