第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う㉔

「……私が出世したら、長安に呼ぶことを約束に、甥に毒草の蜜を採らせることにしました。その時が来たら、いつでも桜雪に毒を使えるように──そしてしばらくして、桜雪がいつもと違う事に気がついたんです」

「いつもと?」

 もしや、あねしつそうや、入れ替わりに気がついたのか? と、思わず僕は息をのんだ。彼女に知られてはいけないと、僕の本能が告げている。

 それは絶牙も同じなのだろう、僕の横で、彼が刀を握り直す音がした──その時だ。

「そこの宦官です」

 巧鈴が、絶牙をにらみ付けた。

「華妃様。普段は華妃様の威を借りて、常にかんぺきなフリをして私達を支配する嫌みな桜雪が、そこの若い宦官と二人きり、夜中に何時間もこそこそ部屋にもるのを目撃したのです」

 ご存じでしたか? と、巧鈴が声を震わせる。

「それは……」

 ご存じも何も……多分理由は一つしかない。

 でもそれを彼女に説明しようと思う者は、ここには誰一人としていなかった。

「た……確かに宦官と女官の汚らわしい関係は、この後宮でも珍しい事ではありませんが、少なくともまずその話を、わたくしにするべきだったのでは?」

「いいえ。どうせ卑劣な桜雪は、上手うまく言い逃れてしまうでしょう。だからもっと巧妙に陥れるしかないと思いました。でも普通に桜雪を脅迫したりした所で、彼女は上手く逃げおおせるでしょう。だから私は、華妃様を狙うフリをしたのです──実際、華妃様の言う通り、貴女を傷つけようとしても、実際に傷つくのは周囲ですから」

 そう言って、巧鈴がにやっと笑ったのを見た。それを見て、ドゥドゥさんも笑った。

 ああ──これが人の心の毒というものか。

「でも殺そうとまでは思っていません。その恥ずべき桜雪と宦官を、華妃様の隣から引きずり下ろしたかっただけです!」

 だから衣装室の引き出しの中、茴香が僕から取り上げたお菓子を見つけ、彼女はこっそり毒の蜜をむしもちに塗った。食べるのはどうせ桜雪か絶牙だろうと考えて。

「……そんなの、ただの逆恨みとか、思い込みじゃないですか」

 それまで、黙っていた茴香がぽつりとつぶやいた。

「……なんですって?」

 ぎり、と巧鈴が怒りに奥歯を嚙むのが聞こえた。

「お前に何がわかるの!? 毎日どんなに必死に働いても、華妃様は私を見てはくれない。褒めても、必要としてもくれない。私だってそんなに劣ってはいないはずなのに、卑怯な女達に手柄を奪われていく……どんなに必死に働いても、私だけいつも報われない!」

 真面目すぎて要領の悪い女官──それが周囲の巧鈴の評価だ。

 桜雪は巧鈴が言うような卑劣な女性ではないはずだ。

 とはいえそつがないからこそ、出世できるのは確かだろう──それが巧鈴の目には、卑怯だと映るのか。そしてそんな巧鈴だから、出世を逃してしまうのだろう。

「私はただ、認めて欲しかっただけです! 貴女に! 今度こそ私が勝ちたかった!」

 そう巧鈴が叫んだ。まっすぐに僕を──僕の後の翠麗を見て。

「……貴女の気持ちはわかったわ。だけれど──ねえ巧鈴。たとえわたくしが食べる事はないと知っていても、それでも主人に毒を盛る女官を、どう認めろというの?」

「あ……」

「これがわたくしではなく、茴香でもなく、杏々だったらどうかしら? 彼女は貴妃様の所から遣わされた女官よ。彼女が毒殺されたと知れれば、大変な事になるわ? それにわたくしの所には、高力士様だっていらっしゃることがある。知らずに彼にお菓子をお出ししたとしたらどうするの?」

「そ……それは……」

 ひゅう、と、それ以上の言葉を見つけられずに、巧鈴が細く息を吸った。

「貴女は忠実だったし、真面目で、よく働いた。認められなかったのは確かに不憫だったとは思うわ──でもね、それなのに貴女は自分自身で永遠にわたくしの信頼を裏切った。己の弱さを理由に、卑怯にも誰かを毒であやめようとした──貴女がやったのはそういう事よ」

 僕の中に、怒りと悲しみがこみ上げてきて、頰を一筋涙が伝う。

 巧鈴は必死に首を横に振った。

「そんな……違います! 私は本当に、華妃様をしいぎやくするつもりは毛頭ありませんでした! 桜雪なんです! 卑怯なのは全部汚らわしいあの女なんです! なんでもかんでも全部独り占めするあの女が!」

「絶牙」

 ギイギイときしんだ声で叫ぶ巧鈴を見下ろし、僕が絶牙を呼ぶと、巧鈴は「ひぃいい!」と悲鳴を上げた。

「直ちにその者を取り押さえよ。桜雪、茴香、今すぐ衛兵を呼びなさい」

 僕がキッパリと言い放つと、とつに巧鈴ははちみつのたっぷり入った、ちやわんに手を伸ばす。

「絶対に、貴女あなたの思うとおりにはならないわ」

 そう巧鈴は桜雪を睨んで叫ぶと、お茶を一気にあおった──ああほら。お茶を熱くしておかなくて良かった。

 巧鈴はわらった、大声で。彼女は泣きながら笑い、震えている。

 ドゥドゥさんが床に転がった湯飲みを拾い上げた。

「何かに勝ったつもりかえ?」

 美しい毒妃は、こんな楽しい事はないという風に、巧鈴の耳元に唇を寄せる。

「でもなぁ、巧鈴。華妃が最初から言っておったじゃろう? お茶によ」

「……え?」

「残念じゃのう。これは、ただの蜂蜜じゃ」

 そう言ってドゥドゥさんは拾い上げたさじで、自分の唇にとろりと蜂蜜を垂らすと、えんぜんと嗤って見せた。

「あ……そ、そんな……」

「なんと哀れな──お前を殺す毒は馬酔木あせびではなく、お前自身の心よ」

「あ……あ、あ、いやあああああああ」

 巧鈴が悲鳴を上げた。

 その声はそれから何日間もずっと、僕の耳に残って離れなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る