第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑰


 そうして翌朝、ういが体調を崩したということで、素肌をさらす着替えの部分をおうせつぜつが手伝ってくれた後、他の準備は部屋の女官に任せることにした。

 衣装係の筆頭である茴香の不在で、女官は少々手間取っているようだった。

 別に僕は焦りもしないし、手際の悪さを𠮟るつもりもないけれど、翠麗はどうだったのだろう? 彼女も𠮟るとは思えないが。

 それでも年かさのこうりんは落ち着いていて、「焦らないで、丁寧に」と、りよくえいを上手に指導していた。

 むしろいつも一人で興奮して、周囲に上手うまく伝えられない茴香より、彼女の方が指示を出すのが上手い気がする。

 緑榮も落ち着いて、普段よりも丁寧に、華やかに仕上げてくれた。

「いつも通りにやればいいだけです。いえ、むしろこんな時こそ、華妃様を喜ばせて差し上げましょう」

 巧鈴はそう言って、髪に挿すれいな花を、庭から摘んでくるように緑榮に指示した。

 わざわざそこまでしなくとも……と思ったけれど、どうやら一時的に彼女を部屋から遠ざけるためだったらしい。

「昨日の手紙ですが、確かに都まで届けさせました」

「──ああ」

 緑榮が部屋を出ると、巧鈴はそっと声を忍ばせた。毒入り蒸餅の件ですっかり忘れてしまっていたが、こうりき様への手紙を頼んでいたのだった。

 今になっては少しとんちんかんな内容だ、あらためて自分の誤解だった事をしたためて、彼に渡さなければ。

「ありがとう。面倒をかけてしまうけれど、もう一通お願いしても大丈夫かしら?」

「面倒だなんて!」

 巧鈴が首を横に振る。

「私はずっと……高華妃様が後宮に上がられた時からお仕えしております。高華妃様の為ならなんでもいたします」

 恭しくこうべを垂れる巧鈴に、チリ、と胸が痛んだ。

「そうね、頼りにしているわ。いつもありがとう」

 ──でもごめんなさい。今貴女あなたの前にいるのは、すいれいではなく弟のぎよくらんなんです……と、心の中でささやいたけれど、それを声に出すわけにはいかず、その代わりに僕は行動で報いようとした。

 可能なら、彼女をもう少し昇給させるとか、そういう事が出来たら良いのだけれど。

 僕は急いで昨日の手紙は僕のゆうであったことをしたため、また赤い花を添えて彼女に託す。そうこうしているうちに、花を探しに行った緑榮より早く、お茶と薬湯を持って、あんあんしゆうめいがやってきた。

 今日は僕の起きた時間がいつもより早かったので、着替えを先にしてしまったのだ。

「おはようございます、今日はお顔色が良いですね」

 そう言って杏々がにこにこと笑う。やっぱりそんな彼女が、昨日僕に毒を盛ったとは思えない。でも、だとしたら、もしかしたら……。

「秋明、昨日貴女が買ったというむしもちを頂いたのだけれど、絶牙に買いに行かせたいから、どこの店か教えて欲しいの」

「え? 蒸餅ですか!? 高華妃様のお口にも入ってしまったんですか!?」

 秋明さんが驚いたように言った。

「ええ、杏々がわけてくれたのよ」

「そんな、高華妃様のお口に入れて良いものだったでしょうか? だって屋台菓子ですよ?」

「あら、わたくしだって、子供の頃は屋台でお菓子くらい買いましたよ?」

「そうかもしれませんが……大丈夫ですか? 桜雪さまに怒られたりしませんでした?」

 心配そうに秋明が声を潜めた。そういう仕草を見る限り、やっぱり彼女も、昨日僕に毒を盛ったようには思えない。

 では、僕ではなく、杏々に盛られた毒だったらどうだろう?──いいや、だとすれば、もう少し焦っているだろう。毒入りのお菓子を主人に食べさせたのだから、大事になっているかもしれないのに、こんな平静ではいられないんじゃないだろうか。

 だけど特におかしな風でもなく、絶牙に店の場所を説明する秋明と、お茶を用意してくれる杏々を見て、なんだかほっとした。

 身の回りの世話をしてくれる人──しかも、直接口に入るものを管理してくれている人を信用出来ないっていうのは、こんなにも怖いことなのか。

 そうして僕は無事身支度も済ませ、今日は一日書を読んで過ごした。

 夜のために体力温存と考えたのもあるけれど、恐らく一晩何度も僕の部屋とドゥドゥさんの部屋を行き来していた絶牙は、夕べほとんど休んでいなかったと思ったからだ。

 実際、お疲れでしょうと声をかけたら、彼は首を横に振ったものの、僕が寝台で静かに書を広げている間、うとうと船をいでいた。

 もちろん、休んでいても大丈夫だと、僕が言ってあったからであって、油断していた訳ではないことは、彼の名誉のためにも言っておきたいが。

 でも靴の石の事もある。こうやって小さな恩を売る事で、彼に僕を好いてもらいたかった。翠麗が戻るまで、僕は彼を頼らざるを得ないのだから。


 そうして夜が来た。

 今日の役目を終えて、女官達は長湯の方の自分達の控え部屋に消えていく。

 茴香の体調不良で、僕の不自由を心配した巧鈴だけが、今夜は自分もこちらに残りましょうか? と心配してくれたけれど、丁寧にお断りした。

 既に僕の秘密は、昨日ドゥドゥさんにもバレてしまったのだ。これ以上知っている人は増やしたくない。

 女官達の足取りは軽く、みな元気そうだった。それとなく他の女官達の体調を聞いても、特に具合が悪いという者もいなかったので、やはり毒はあの蒸餅にだけ入っていたのだろう。

 茴香の具合は、随分よくなったという話だけは聞いていたけれど、具体的な話は聞けないまま日中を過ごした僕は、夜を迎え絶牙と共にドゥドゥさんの部屋へと向かった。

 先に訪れていた桜雪が、寝台に腰を下ろして茴香と話している横で、どうやらまだ身支度の途中だったらしいドゥドゥさんが、眠たそうな顔で女官の人に髪を結われている。

 その幾分ほどけたというか──女性だけの空間に、邪魔するように入って行くことに、僕は一瞬ちゆうちよした。

 絶牙もなのだろうか? 中の女性達の誰かが気がつき、声を掛けてくれるまで入り口で静かに頭を下げて待っていた。

「小翠麗様!」

 一番先に声を掛けてくれたのは茴香だった。

「良かった……随分顔色が戻られましたね」

 顔色どころか彼女はすっかり体調が戻ったようで、にこにこと朗らかな表情だ。

「まだ食欲は戻らないようだから、明日あしたまでは起き上がってはいけないと言うているに、すぐに帰りたがって大変じゃった」

 ドゥドゥさんが不満げに言った。

「だって、小翠麗様の事が心配で……ほらその衣、選んだのは巧鈴ですね。確かにその色は翠麗様にはお似合いでしょうけれど、小翠麗様のお肌と目の色には似合わないんですよ、まったくもう……」

「僕は翠麗なのだから、これはこれで良いと思うけれど……」

 毒で死んでしまうかもしれない所だったのに、そんな心配をしている場合かと、少しあきれつつ答えると、彼女は「いいえ」と首を振った。

「そういう違和感が、『あれ、おかしいな?』につながるかもしれないじゃありませんか。お似合いだったらみんな『今日もお綺麗です』で終わりでしょうけれど、似合わないものにはみなさん厳しい事を思うんですよ。微妙にずれているものほど目をくものです」

「似合わない事で僕が翠麗ではないと、バレてしまいやすい……そういう事ですか」

「巧鈴は少し頭が固いから……今のこの大唐向きじゃないんですよね。作業はとても丁寧なんですけど」

「でもそうね……彼女は同期なのですが、真面目すぎて出世を逃しているのです」と桜雪もうなずく。

「真面目すぎて?」

 真面目なのは美徳ではないのだろうか? 少なくとも僕は、そこまで巧鈴に悪い印象はなかった。

 けれどそういう疑問は、口に出さずとも通じてしまったようで、桜雪は「私達は……時には色々な事が見えない、聞こえない存在でいなければなりませんから」と答えた。

 忠実であるのは勿論のことだが、主人の事で見ない振りをすることや、あえて伝えなくて良い事も、時にはあるのだと。

 確かにそういう融通が利かない臣下が、扱いにくいのはわからなくもない。

「以前、同じしよう様にお仕えしていた頃、やたらとネズミの多い年がありました。そのせいでネズミが昭儀様のお気に入りのご衣装をかじってしまったんです。しゆうなどをして誤魔化せば良いものを、彼女はわざわざそれを昭儀様に報告し、許しを請うたんです」

 これが翠麗であったなら、仕方がないと許しただろうが……昭儀は動物が大嫌いだったらしい。ネズミの存在に既にへきえきとしていた彼女は、お陰で大変怒ってしまって、巧鈴を部屋から追い出してしまったのだ。

「だとしても、今日はゆっくり休んでください。一日心配だったんですよ」

 巧鈴が扱いにくいのはわかったけれど、これ以上胸がザワザワする話は聞きたくなくて、慌ててそう茴香に言う。彼女は「なんとお優しい!」と目を潤ませながら、「明日にはもう大丈夫ですから!」と言った。

 いや……だからそうじゃなくて、無理はしないで欲しいと言っているのに……。

「それで、じゃ。やはり毒は、茴香の食したむしもちにだけ仕込まれていたという事か」

 そんな僕達のやりとりを、すっかり聞き飽きたように、髪を結い終えたドゥドゥさんが言った。

「あ、はい。どの女官も元気でしたし、僕に蒸餅をくれた杏々も、買って来たという秋明も、どちらも毒入りとは気がついていない様子でした」

「毒妃様」

 僕が話し終わるのを待って、桜雪が僕とドゥドゥさんに、小さな包みを二つ差し出してきた。

「それは?」

「茴香が食べ残した蒸餅と、先ほど絶牙が同じ場所で購入してきたものです」

 包みを開くと三分の一ほど減った蒸餅と、手つかずの一切れが並んでいた。両方同じ木型を作って作られた、複雑な模様が入っているから、同じ店の物で間違いないだろう。

「こういう時の為に、必ず残してあったんです。小翠麗様のお菓子を全部食べてしまうのも良くないなって思いましたし……」

 茴香が苦笑いで言う。

 僕は蒸餅を持って行かれて、機嫌を損ねていた自分を恥じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る