第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑯

 貴妃様の前に陛下がちようあいしていたのは、そくてん公の血を引いてなお、げんそう皇帝の愛を一身に集め、我が子寿じゆおうを次期皇帝に望んだ武恵妃様。

 そんな彼女のどくせん場を防ぐため、楊家がどこからか連れてきた美しい養女・楊ぎよくかんを寿王妃にしたのだ。

 高力士様の中では、どれだけ武恵妃様が望もうとも、寿王様は皇帝候補ではなかった。そのため寿玉の妻には多少素性が怪しくとも、美しく、賢い女性であれば、出自は問わなかったのだ。

 目的は寿王様が彼女におぼれ、けとなる事だったのだから。が──武恵妃様の急逝が、高力士様の計画を壊した。愛する妃を失った陛下が、まさか我が子のはんりよを奪い去り、自分の後宮に召し上げるとは……。

 武恵妃様の不在をお慰めするのは、他でもなく翠麗の務めであり、そのまま皇后に上り詰めるはずが──今、陛下の隣にいるのは、楊貴妃様なのだ。

 寵愛に寵愛を重ねても、元は息子の妻であった女性を、皇后の座に据える事は、周囲の反発があまりにも強すぎる。

 よって長らく皇后不在のまま、陛下は後宮の一角で、ただただ楊貴妃様を盲愛している。そのため、楊貴妃様も翠麗も派閥で言うなら同じ高力士派で、楊貴妃様が非常にしつぶかく、独占欲が強い事を考慮しても、二人は敵対関係にはないはずだった。

 もちろん高力士様の望みは翠麗が皇后になることだったが、なんだかんだ言っても高力士様は玄宗皇帝の忠犬である。

 皇帝が楊貴妃様を寵愛するのであれば、それが最良となるように周囲を動かすだろう。だからえんはあろうとも、楊貴妃様が翠麗を害することはない筈だ。

 高力士様にとって、翠麗は娘も同然。いくら陛下の寵があっても、高力士様に背いて、この後宮で暮らすのが楽ではない立場だという事ぐらい、楊貴妃様だってわかっているだろう。桜雪もまた同じ考えのようだった。

「楊貴妃様が、そこまで愚かなお振る舞いをするとは思えませんし、お立場で言うならば、やはり高華妃様より楊貴妃様の方が上です」

「そうですね。弱い者……というならばなおさら、貴妃様の部屋子である杏々が犯人とは思えません」

「でもまあ、女官の独断という可能性がない訳でもない。もしくは彼女が別の部屋の細作というのも考えられる。断言するのは早かろう。だが答えは決まっている。高華妃よりも弱く、今彼女を憎む者を捜せば良い。しかもわざわざこの温泉宮まで同行している人物だ──簡単じゃろう?」

 確かにそう言われれば、簡単なようにも聞こえるが……実際はどうだろう? 少なくとも候補が絞られた気がしない──けれど、見つけないわけにはいかない。

 結局脅迫状の存在を知ってしまった以上、僕だって今まで通りになんて暮らせない。

「これ以上待つのではなく、犯人を捜しましょう」

 そう僕がきっぱり言うと、桜雪は渋々というように頷いた。

 とはいえ、犯人捜しは気になるものの、茴香の意識が戻らないことや、彼女の容態がもう少し安定してから、改めて行動した方が良いという事になったのだが。

 ドゥドゥさんは、また明日あしたも協力はしてくれるらしい。

「だがわれは日中は動けぬ」

「え?」

「陽光に当たると、皮膚が火傷やけどをしてしまう故」

「そ……そうなんですか!?」

 なるほど、道理で確かに、女官達も彼女の存在をあまり知らないわけだと思った。

 話によれば、日が出ている間は締め切った部屋の奥で眠り、日が沈んでから動き回っているという事だった。

 日中は寝ているから、夜は別の場所に移動する女官達は、ドゥドゥさんに会う事もないのだろう。

「でも……それは、ご不便ですね」

「不便などないよ。毎日何も変わらぬ」

 女官も普段からただ一人、彼女の母と姉妹きようだいの杯を交わした女性が、毎日彼女を世話してくれていると言うから、気心知れた……という事なのだろうか。

「その代わり、明日の夜までには、茴香の毒が何か調べておくことにしよう」

 そう言ってドゥドゥさんが微笑んだ。まるで毒という言葉が甘いように。

 そうして絶牙に連れられて、自分の部屋に戻るドゥドゥさんの背中を見送る。気がつくと同じように彼女を見つめる桜雪の姿があった。

「彼女が『毒妃』ですか……不思議な方ですね」と、改めて桜雪に言うと、彼女は静かに頷いた。

「……翠麗様からお話を伺ったことがあります」

「翠麗から?」

「ええ、つまりは高力士様からのつてでしょうが……その昔、かんの時代に『』という神医がおりました。彼は様々な国の医術に精通し、中でも薬学にけていたと言いますが、その医術は我が国では異端。その術があまりに異質すぎた為に、やがては投獄され、死に至ったと言います」

「華佗、ですか……」

「彼はせいのうしよという秘録を残してきました。全ては燃やされてしまったと言われていましたが、実際は章ごとに分け、数人がそれを引き継いだと言われています──そしてその中で、『毒』の章を引き継がれたのが、毒妃様の一族であると」

 だのに、それまでどの皇帝も、唐国だけでなく遠くやまとの国や大秦ローマ大食アラビアといった大国の毒までしつした彼女の一族の声に耳を貸す者はいなかったという。

「……けれど、玄宗陛下は別だった、という事ですか」

 桜雪が静かにうなずいた。

 玄宗陛下は、他国の風習を、さまざまな物を好んで取り入れる人だ。いと思えば国は関係ない。女性が胡服をまとい、男のように馬に乗ることすらとがめられないお方だ。

 それが医術であっても同じという事か。

「後宮を愛し、に恵まれる皇帝はおられますが、陛下は飛び抜けて沢山の皇子・公主を授かられております。それは後宮の女達、そして国を操ろうとする男達が、嫉妬、憎悪、野心で妃を、赤子を毒で殺すのを、未然に防いだ者達がいたからです」

 歴史の影、いつの時代も後宮という場所は、皇太子争いで血が流れるものだという。

 だからこそ、玄宗陛下は絶対的な信頼をおいて、毒妃様の一族を優遇した。

 誰かの野心が我が子を、愛する妃の命を脅かしたりなどしないように。

 そうして彼女の父が、母が毒で倒れてしまったことを愁い、ドゥドゥさんを妃に封することで、彼女が不自由なく衣食住を得られるようにしたのだ。

 そしてそれは他でもなく、彼女がその知識を継承していく為であり、同時に後宮をこの先も毒から守る為だろう。

 毎晩のように陛下の寵を得ている楊貴妃様だが、いまだ御子には恵まれていない。とはいえ誰もが時間の問題だと思っているし、陛下はその時は誰より貴妃様とを守りたいのだろう。

「ですがあの通り、少し変わったお方です、女官達だけでなく、他のお妃達もみなおびえて噂をするばかりですわ」

「──でも、翠麗は違ったんですね?」

「……はい」

 桜雪がどこか誇らしげに微笑んだ。

 だってそうだ。あねはそういうくだらない噂に、安易に耳を貸す人ではない。それにドゥドゥさん本人も、翠麗の事は好ましく思っている口ぶりだった。

 姐の優れた部分をかいたようで、僕はうれしくなったし、まるで自分の事のように誇りに感じている桜雪に、親近感も湧いた。

「でも、だったらやっぱり、翠麗は毒が原因で後宮から逃げたわけではないのですね」

「私もそう思います」

 もし本当に毒に怯えているのであれば、逃げるよりもドゥドゥさんを頼る方が安全だろう。後宮から逃げるより、彼女の協力を得る方が、翠麗には容易たやすかったはずだ。

「無事で、元気にしているといいんですが……」

 翠麗のことは怒っているし、許せない部分だってある。

 だけど、それでも翠麗は僕の姐で、大切な家族なのだ。

 どこで何をしているのであれ、まずは息災であって欲しい。文句を言うのはその後、元気に戻って来てくれてからでいい。

 今はそれより、僕と翠麗を傷つけるはずだった毒の事だ。

 結局その夜は訓練をする事もなく、夕食も冷たいべいと干したらくの肉を、熱いお茶で流し込んで終わらせ、すぐに眠りについた。明日は忙しくなるだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る