第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑮

 彼女と、そして戻って来た絶牙は、二人とも深くこうべを垂れ、ひざまずいていた。

 それは高貴な人にゆるしをう時の拝だ──僕は高貴な人ではないのに。

「……小翠麗様のお怒りはごもっともです。けれども私達は、何があっても貴方をお守りするつもりでありました」

 伏したまま、桜雪が静かに声を絞り出した。

「翠麗様の代わりを務めていただく以上、小翠麗様に麗人としての訓練が必要なのも事実でした。沢山のご苦労や不自由を、小翠麗様に耐えていただかなければなりませぬ。それだけで充分すぎるほどご負担だというのに、どうしてお命まで狙われているなどと、お話しすることが出来ましょうか」

「でも……あらかじめ知っていたら、僕だってもっと上手うまく立ち回れたはずです。少なくとも、茴香に毒を飲ませずに済んだかもしれない」

 ひとまず頭を上げてくださいと付け加え、僕は二人に言った。僕は貴人ではない。でも二人は頭を上げてはくれなかった。

「私達が犠牲になるのは覚悟の上です。小翠麗様は自らのお命を懸けて、翠麗様になることを選んでくださった。であれば、貴方に報いるために、命を懸けて小翠麗様をお守りするのが、我らの務めでございます」

「…………」

 悔しいけれど、そんな二人の姿に、僕の怒りが急速に解けた。

 結局僕は、不自由や苦痛ではなくて、あねの罪を一人で償う『贖罪羊』になるのが嫌だったのだろうか。

「……わかりました。でも、今後は僕にもきちんと全部話してください。貴女あなたたちにもし何かあったら、僕は誰を頼れば良いんですか」

 たとえ根っこの部分で信用出来なくとも、僕は彼らを頼るしかない。

 姐の不在が明るみに出れば罰せられ、僕が彼女に化けて後宮にいることが知れてもざんしゆだろう。

「お気遣いは感謝します。ですが、状況は容易くありません。僕達が協力しあい、冷静に賢く立ち回らなければならないと思います──少なくとも、まだ誰が僕に毒を盛ったのかすら、わかっていない状況なんですから」

 茴香を危うく死なせかけてしまった。そしてその罪悪感は、自分も死ぬかもしれなかったという、鮮やかな恐怖に直結している。

「そうじゃ、おりに入った山羊の事より、今はまずその話が必要ではないかえ?」

 ドゥドゥさんが待ちかねていたというように言った。

 桜雪は頭を上げ、何か言いかけた。けれど思い直したように、結局もう一度僕達に頭を下げてから、「確かに、おつしやる通りでございます」と言った。

「それで……毒について何かわかりましたか?」

 そう言いながら僕は、ドゥドゥさんに椅子を勧めた。そうして、今度は美味おいしいお茶を絶牙にお願いしようとしたら、彼は既に用意を始めていた。

「毒を飲んだ者の意識がないので、確実とは言いがたいが──おそらくあまり後宮では使われぬ毒じゃな、ふふふ」

 椅子に腰を落ち着けるやいなや、彼女は第一声でそう言った。うれしそうに。

「珍しい毒という事ですか?」

「希少価値というよりも、味などの問題で、相手を毒殺するのは少々難しいと思う」

「もしかしたら、茴香があの程度で済んだのは、飲みにくい毒だったから……という事でしょうか?」

「そうかもしれぬ。そもそも毒と言っても、口にすれば直ちにみなくとは限らない。殺すには死に至らしめる為の量が必要だ。その量を飲み下せないような毒は好まれない──何故この後宮、王宮で『ヒ素』が横行しているのかといえば、それは多くが無味無臭で食べ物の中に潜ませやすく、比較的少量で命を奪う事が出来るからだ」

 確かにヒ素については、儀王宮でもいつも警戒されていた。

「毒というのはもろの剣。一度に仕留めねば警戒されるし、己の罪が暴かれやすくなる。故に毒は、少量で強いものが好まれる──こと、この後宮においてはな」

「つまり茴香が飲んでしまった毒は、そうではないという事ですわね」

 絶牙がれてくれたお茶を、桜雪はまず自分で一口飲んで見せてから、僕達に勧めた。

 それはつまり、このお茶に毒は入っていないという証明だったんだろう。

 そこで僕は思った。もし杏々が僕に毒を盛るつもりなら、むしもちに仕込まないでも、いくらでも飲ませるタイミングがあったはずだ。

「では、事故……という可能性は? うっかり蒸餅の中に、毒になるような物が混ざってしまったとか……」

 僕がそう問うと、ドゥドゥさんは露骨に顔をしかめた。

「そなたの人生で、うっかり毒を盛った経験があるというなら話は別じゃが、実際にそういう事はあまりないのではあるまいか?」

 と、ドゥドゥさんが首をひねると、桜雪もげんそうに僕を見た。僕は首を横に振った。

「でも確か近くの屋台で売られているものだと聞きました。女官達に人気のお店だとか……尚食女官のあんあんがくれたんです」

「杏々ですか? あの気立ての良い娘が?」

 桜雪も驚いたように顔を顰めた。僕も正直言いたくなかったし、いまだに杏々が毒を盛るようにも思えないのだが。

「はい……でも他の部屋付き女官であれば、真っ先に疑われてもおかしくないでしょう? そんなすぐバレるような方法で毒など盛るでしょうか? それならこうやって、直接お茶に入れても良かった筈なのに」

「確かに……わざわざ毒など使わずとも、剣で斬りかかったとて同じじゃの」

 ドゥドゥさんもうなずいた。そうなのだ、結局杏々の仕業と思える状況である以上、やいばでなく、お茶でもなく、蒸餅に仕込む必要があるようには思えない。

「人が何故毒を使うか知っておるか?」

 不意にドゥドゥさんが僕に問うた。

「それは……相手を殺す為では?」

「いいや、刃や暴力ではなく、何故『毒』なのか聞いている」

「何故と言われても……」

 それは相手が憎いからとか、邪魔だからとか、沢山の理由があるはずだ。でも明確には答えられなくて、僕は困惑した。

 ドゥドゥさんはお茶を一口飲んで薄く笑うと、「弱いからだ」と言った。

「……弱いから?」

「そうじゃ。毒は弱さと、殺意が全て。毒で殺すというのは、紛う事なき殺意よ。怒りや憎悪から生まれる暴力よりもなお強い。そして己の弱さの象徴でもある。いいか? 富める者、強い者、優れた者であるならば、毒だなんて回りくどい物を使う必要はない。殴れば良い、刺せば良い、『あの者を殺せ』と誰かに命じるだけで良い──でも毒はそうではない。毒は力のない者が、己を守るために使う武器じゃ」

 低くかすれた声が、淡々と、冷たく響く。僕はひっそりと恐怖を感じた。

 そうして気がついた──彼女は笑っている。冷たい言葉、まがまがしい毒について語りながらも、彼女は口元に笑みを刻んでいた。あの夜会った時と同じだ。

 この人は──ああ、この美しい人は、毒の話をする時だけわらうのか。

「毒とは弱い生物たちが、己をまもり、種をつなげるために作り出したもの。それを何故人間が使うかと言えば、やはりその者が弱いからだ」

「では……毒を盛ったのは、僕より弱い者の仕業と、そう仰りたいのですか? つまり、高華妃より事実上立場が上であるよう貴妃様が、姐を毒殺などしないと?」

「そうだな。本当に強い者ならば、わざわざ殺す必要もない。ひれ伏させ、服従させればいい。でもわざわざ殺すというのは、それが危険な存在だからだ。だから毒を使う者は、その相手を恐れている。弱いから、生きる為に、身を守るために毒を使う」

「生きる為……ですか」

 そもそも貴妃様も、元々高力士様の後ろ盾のある女性だった。

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