第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑨
五
眠りすぎると余計に眠たくなるものなのか、それとも疲れが一気に出てしまったのか。今朝も結局すぐには起きられなかった。
だらだらと朝の寝台でまどろむ。起きようと思っても
それでも自分一人だらだら眠っているのは申し訳なかったし、
とはいえどうせ早く起きたところで、午前中は何かしなければいけない訳じゃない。
今日は日中は少しのんびりしよう……どうせ『翠麗』は病人なのだから。
そう思って、僕はとろとろと眠り続けた。朝の気配を感じながら。
女官達が何人か心配そうにのぞきに来たけれど、気がつかないふりをする。
朝の支度が出来なくて困っているようだったけれど、今日だけは
よほどぐっすりと眠っていると思ったのだろうか、彼はほっとしたように息を吐き、そして僕が起きても困らないように、簡単な着替えを用意してくれていた。
絶牙は本当にいい人だ……そんな事を考えながら、目を閉じて彼の気配だけ追っていると、ふと彼が僕の肌着の前で立ち止まっているのを感じた。
なんだろう? と薄目を開けて見た。
彼はどうやら、僕の布の部屋履きを手にして、何かしているようだった。
緑地に朱と金の糸で
「…………」
そんな僕にやけに驚いたようにして、絶牙は部屋履きを床に置き直す。
「あ……おはようございます……」
そう
なんだろう? なんだか変だな、と思っていると、すぐに朝の薬を女官の
後にはお茶やお
「今朝はもう、ちゃんと毒見してあるので大丈夫ですよ」
杏々がにこやかに笑うと、秋明も「今朝は薬湯も少し冷ましてきました」と言った。
なんだかとても気を遣わせて申し訳ない。しかも今朝は随分寝坊してしまったのに。
だから今日は、我儘を言わずに薬を飲もう。そう考えて従順に頑張った。
必死に薬を流し込んでいると、
普段なら先に、絶牙が身体を洗うお湯などを用意してくれるんだけど……まあ、今日は仕方がない。僕が寝坊したから悪いのだ。
そんな事を思いながら、いつも通り着替えを済ませ、そうして柔らかい布履きを履いた──その時だった。
「うっ」
ゴリ、と、足の裏に痛みが走った。
昨日痛めた足の反対側、左足の裏に強い痛みを感じて、慌てて足を上げたけれど、靴の下には何もない。でも靴を脱ぐと、ころん、と小石が転がり落ちた。
「まあ大変!」
と茴香が慌てて、僕の足を調べた。少し赤い
「何かありましたか?」
ざわついた空気を心配してか、
「巧鈴、申し訳ないけれど、足を冷やす水を持ってきて」
「足を?」
「ええ。
「そんな……きちんと確認なさらなかったんですか?」
巧鈴と呼ばれた女官が少し怒ったように言った。
「それは……」
「わ、わたくしがさっさと履いてしまったからいけないのよ巧鈴。冷やす程でもないから大丈夫、行かなくてもいいわ」
巧鈴が茴香を責めようとしたので、僕は慌てて間に入った。
「いいえ、すぐに水を持って参ります」
巧鈴が険しい顔で首を振り、急ぎ足で部屋を出る。
ふう、と茴香が
「……怖い方なんですか?」
と、こっそり耳打ちすると、茴香は苦笑いした。
「私よりも年上で、長く後宮にお勤めなのですが、今この部屋の尚服女官の筆頭は私です。あまりよく思ってくださらないのは仕方ないと思います」
しゅんとしながら茴香が言う。
彼女は元々、尚服女官ではなく
それが今は、華妃の衣装や
「
そんな茴香に、桜雪がきっぱりと言った。
そうして僕を長椅子に座らせ、痛む足をもう一度確認したあと、茴香にわざわざ新しい靴を用意するよう申しつける。
別に新しい靴にしなくても良かったのに……と思ったけれど、また何かあったら更に手間を取らせることになるだろうし、ここは任せておくことにした。
ややあって、茴香より先に巧鈴が冷たい水を持ってやってきた。
「お可哀想に、赤くなっていらっしゃいますわ」
冷たい水で布を
「……靴の確認を怠ってしまったのは、私の罪です。どうぞ罰してくださいませ」
そう言って桜雪が床に
「小石を踏むなんて珍しい事じゃないし、気がつかないで履いたわたくしが悪いのよ」
慌てて僕が言うけれど、桜雪の表情は硬い。本当に気にして
仕方がない──。
「頭を上げて桜雪。ここで座っているよりも、貴女には他に仕事があるのではなくて? それとも忙しい貴女が、朝のお茶の相手をしてくれるの?」
僕が……『翠麗が』、努めてにっこり笑うと、桜雪はそこでやっと、はっとしたようにもう一度一拝してから立ち上がった。
「いいえ……お茶はまたの機会にさせてくださいまし」
「そう? 残念だわ。お茶菓子は
貴妃紅は、
高華妃にここまで言われて反論する訳にもいかないと、桜雪は苦笑いを浮かべて、部屋を後にする。
僕は思わず安堵の息を吐いた。他の女官達の目がある手前、謝らないわけにもいかなかったんだろうけれど、なんだかんだで彼女が居てくれなきゃ困るのだ。
「……華妃様らしくありませんわ」
「え?」
そんな僕を見て、巧鈴がぽつりと言った。
瞬間、心臓が爆発するほど跳ね上がった。
しまった、僕はごくごく翠麗らしい態度のつもりだったけど、違ったのか? もしかしてバレている?
──い、いやそんな
「そ……そんな事ないわ。それに、わたくしはわたくしよ」
思わず指先だけでなく、声が震えかけたけれど、僕はなんとか最後までそう発声した。
「そうですね……ですが、私の知っている高貴な妃嬪は、みなさん翠麗様のように寛容じゃありませんでしたわ……本当にお優しくていらっしゃいます」
「は……そ、そんなことないわ。でもありがとう、巧鈴は褒めるのが上手なのね」
しみじみと巧鈴が言うのを聞いて、僕は一気に脱力し、それでもまだドクドクいう心臓の音を耳の中に聞きながら、そう答えた。
そうか、なんだ、僕の事ではなく、『一般的な華妃』とは違うと言ったのか。
びっくりした。あんまりびっくりしすぎて、少し気分が悪くなってしまった。
「そろそろ髪をお結いしても
そんな僕の一喜一憂を知らない巧鈴が問うた。
「そうね……でもなんだか疲れてしまったから、先に少しだけ横になっても良いかしら?」
「
下ろしたままの髪は、だらしがないのはわかっていたけれど、でも本当になんだか具合が悪かったのだ。それに──。
「……そうだわ、巧鈴。絶牙を見なかった?」
「絶牙ですか? 彼でしたら、先ほど茴香と何か話しているようでしたが」
「……茴香と?」
「はい」
「……そう」
「何か?」
「いいえ……なんでもないわ、ありがとう」
部屋から出て行く巧鈴を見送って、寝台に横になる。
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