第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑨



 眠りすぎると余計に眠たくなるものなのか、それとも疲れが一気に出てしまったのか。今朝も結局すぐには起きられなかった。

 だらだらと朝の寝台でまどろむ。起きようと思ってもまぶたが重くて仕方がない。普段ここでは明確に起きる時間が決まっているわけじゃないけれど。

 それでも自分一人だらだら眠っているのは申し訳なかったし、すいれいはいつも朝の早い人だったので、僕もしっかり起きるようにしたかった。

 とはいえどうせ早く起きたところで、午前中は何かしなければいけない訳じゃない。

 今日は日中は少しのんびりしよう……どうせ『翠麗』は病人なのだから。

 そう思って、僕はとろとろと眠り続けた。朝の気配を感じながら。

 女官達が何人か心配そうにのぞきに来たけれど、気がつかないふりをする。

 朝の支度が出来なくて困っているようだったけれど、今日だけはわがままを許して貰おうと思った。

 ぜつもだ。彼は僕が本当に体調を崩していないか心配だったのだろう。僕の顔をのぞき込み、そっと手を取って気の道が乱れていないか確認した後、額に触れて熱がないか調べたようだった。

 もちろんなんの問題も見つからなかっただろう。僕は眠いだけなのだから。

 よほどぐっすりと眠っていると思ったのだろうか、彼はほっとしたように息を吐き、そして僕が起きても困らないように、簡単な着替えを用意してくれていた。

 かんがんという人達は、後宮や王宮で、貴人に仕えるために存在する人達だとはいえ、武人の家系であるならば、僕のような者にかしずく事を、不満に思っても仕方がないはずなのに。

 絶牙は本当にいい人だ……そんな事を考えながら、目を閉じて彼の気配だけ追っていると、ふと彼が僕の肌着の前で立ち止まっているのを感じた。

 なんだろう? と薄目を開けて見た。

 彼はどうやら、僕の布の部屋履きを手にして、何かしているようだった。

 緑地に朱と金の糸でしゆうされた、柔らかくて気持ちの良い靴だけど、ほんの少し小指の所が痛いんだよなぁ……なんて考えながら、いつまでも寝たふりをするのも申し訳なくなって、僕はわざと寝返りをうってみせた。

「…………」

 そんな僕にやけに驚いたようにして、絶牙は部屋履きを床に置き直す。

「あ……おはようございます……」

 そうあいさつをすると、彼はお辞儀をしてから、逃げるように部屋を出て行った。

 なんだろう? なんだか変だな、と思っていると、すぐに朝の薬を女官のしゆうめいが運んで来てくれる。

 後にはお茶やおかゆぜんを持ったあんあんも続く。

「今朝はもう、ちゃんと毒見してあるので大丈夫ですよ」

 杏々がにこやかに笑うと、秋明も「今朝は薬湯も少し冷ましてきました」と言った。

 なんだかとても気を遣わせて申し訳ない。しかも今朝は随分寝坊してしまったのに。

 だから今日は、我儘を言わずに薬を飲もう。そう考えて従順に頑張った。

 必死に薬を流し込んでいると、ういおうせつが、朝の支度にやってきた。

 普段なら先に、絶牙が身体を洗うお湯などを用意してくれるんだけど……まあ、今日は仕方がない。僕が寝坊したから悪いのだ。

 そんな事を思いながら、いつも通り着替えを済ませ、そうして柔らかい布履きを履いた──その時だった。

「うっ」

 ゴリ、と、足の裏に痛みが走った。

 昨日痛めた足の反対側、左足の裏に強い痛みを感じて、慌てて足を上げたけれど、靴の下には何もない。でも靴を脱ぐと、ころん、と小石が転がり落ちた。

「まあ大変!」

 と茴香が慌てて、僕の足を調べた。少し赤いあとにはなってしまったようだけれど、大騒ぎするほどの事ではなさそうだ。

「何かありましたか?」

 ざわついた空気を心配してか、こうりんが慌ててやってきた。

「巧鈴、申し訳ないけれど、足を冷やす水を持ってきて」

「足を?」

「ええ。こう華妃様の靴の中に、石が入っていたの」

「そんな……きちんと確認なさらなかったんですか?」

 巧鈴と呼ばれた女官が少し怒ったように言った。

「それは……」

「わ、わたくしがさっさと履いてしまったからいけないのよ巧鈴。冷やす程でもないから大丈夫、行かなくてもいいわ」

 巧鈴が茴香を責めようとしたので、僕は慌てて間に入った。

「いいえ、すぐに水を持って参ります」

 巧鈴が険しい顔で首を振り、急ぎ足で部屋を出る。

 ふう、と茴香があんの息をらした。

「……怖い方なんですか?」

 と、こっそり耳打ちすると、茴香は苦笑いした。

「私よりも年上で、長く後宮にお勤めなのですが、今この部屋の尚服女官の筆頭は私です。あまりよく思ってくださらないのは仕方ないと思います」

 しゅんとしながら茴香が言う。

 彼女は元々、尚服女官ではなくしようこう局の針子の一人でしかなかったのだという。

 それが今は、華妃の衣装やさい用品の一切合切を管理しているのだ。

貴女あなたを選んだのは他でもない華妃様です。胸を張って働きなさい」

 そんな茴香に、桜雪がきっぱりと言った。

 そうして僕を長椅子に座らせ、痛む足をもう一度確認したあと、茴香にわざわざ新しい靴を用意するよう申しつける。

 別に新しい靴にしなくても良かったのに……と思ったけれど、また何かあったら更に手間を取らせることになるだろうし、ここは任せておくことにした。

 ややあって、茴香より先に巧鈴が冷たい水を持ってやってきた。

「お可哀想に、赤くなっていらっしゃいますわ」

 冷たい水で布をらし、それで赤くなった部分を冷やしてくれながら、巧鈴が痛々しそうに言う。

「……靴の確認を怠ってしまったのは、私の罪です。どうぞ罰してくださいませ」

 そう言って桜雪が床にひざまずいた。

「小石を踏むなんて珍しい事じゃないし、気がつかないで履いたわたくしが悪いのよ」

 慌てて僕が言うけれど、桜雪の表情は硬い。本当に気にしてもらうほどの怪我じゃないし、こんな事で桜雪の協力を失うのはやっぱり怖い。

 仕方がない──。

「頭を上げて桜雪。ここで座っているよりも、貴女には他に仕事があるのではなくて? それとも忙しい貴女が、朝のお茶の相手をしてくれるの?」

 僕が……『翠麗が』、努めてにっこり笑うと、桜雪はそこでやっと、はっとしたようにもう一度一拝してから立ち上がった。

「いいえ……お茶はまたの機会にさせてくださいまし」

「そう? 残念だわ。お茶菓子はこうをおねだりしようと思ったのに」

 貴妃紅は、酥油バターたっぷりのサクサクとした辛口のべいだ。僕の大好物の一つでもある。

 高華妃にここまで言われて反論する訳にもいかないと、桜雪は苦笑いを浮かべて、部屋を後にする。

 僕は思わず安堵の息を吐いた。他の女官達の目がある手前、謝らないわけにもいかなかったんだろうけれど、なんだかんだで彼女が居てくれなきゃ困るのだ。

「……華妃様らしくありませんわ」

「え?」

 そんな僕を見て、巧鈴がぽつりと言った。

 瞬間、心臓が爆発するほど跳ね上がった。

 しまった、僕はごくごく翠麗らしい態度のつもりだったけど、違ったのか? もしかしてバレている?

 ──い、いやそんなはずない。そこまでおかしいことは言わなかったはずだ。でも、もし怪しまれていたらどうしよう? どうしたら巻き返せる? なんて言えばいい?

「そ……そんな事ないわ。それに、わたくしはわたくしよ」

 思わず指先だけでなく、声が震えかけたけれど、僕はなんとか最後までそう発声した。

「そうですね……ですが、私の知っている高貴な妃嬪は、みなさん翠麗様のように寛容じゃありませんでしたわ……本当にお優しくていらっしゃいます」

「は……そ、そんなことないわ。でもありがとう、巧鈴は褒めるのが上手なのね」

 しみじみと巧鈴が言うのを聞いて、僕は一気に脱力し、それでもまだドクドクいう心臓の音を耳の中に聞きながら、そう答えた。

 そうか、なんだ、僕の事ではなく、『一般的な華妃』とは違うと言ったのか。

 びっくりした。あんまりびっくりしすぎて、少し気分が悪くなってしまった。

「そろそろ髪をお結いしてもよろしいですか?」

 そんな僕の一喜一憂を知らない巧鈴が問うた。

「そうね……でもなんだか疲れてしまったから、先に少しだけ横になっても良いかしら?」

もちろんですわ。ごゆるりとお休みくださいませ」

 下ろしたままの髪は、だらしがないのはわかっていたけれど、でも本当になんだか具合が悪かったのだ。それに──。

「……そうだわ、巧鈴。絶牙を見なかった?」

「絶牙ですか? 彼でしたら、先ほど茴香と何か話しているようでしたが」

「……茴香と?」

「はい」

「……そう」

「何か?」

「いいえ……なんでもないわ、ありがとう」

 部屋から出て行く巧鈴を見送って、寝台に横になる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る