第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑧
四
食事の後、気がつけば泣き寝入りしていたみたいだ。
眠ったお陰で胸焼けの方は幾分落ち着いた気がする──その分空腹が勝っていたけれど。
こればっかりはしかたない。
でも今は泣いたせいか、喉が渇いてしまった。
寝台からもそもそ
茶器にお湯を注ぐと、甘い
その香りに、心の
「ありがとうございます……」
お茶を
でも、出来る事なら寝る前に汗だけでも流したい。
「あの……先に温泉に浸かってきても良いでしょうか?」
おずおずとお願いして、そもそもこんな事すら自分の意思で、自分だけで済ませられない事に
実家にも使用人はいたけれど、こんな身の丈六尺五寸もある、立派な
彼は勿論ですという風に頷いて、快諾してくれたようだったけれど、「一人で行って来たいんですけど……」という僕の要望には困った顔で首を横に振った。
「ですよね……」
まあ、わかってはいたんですが……。
そうして温泉で、一日分の疲れと心のコリをほぐし、帰り道の廊下で満月と半月の間の美しい張弦月を見上げると、無性に心がザワザワした。
このまま部屋に戻って寝てしまうのが、なんだか嫌だったのだ。
「……少しだけ散歩をしたら駄目ですか? この時間なら誰にも会わないでしょうし、温まったお陰か、足の痛みも和らぎましたし」
「…………」
僕のお願いは、本当はあまり許されないことなのはわかっていた。
多分
陛下は特に
中庭もその一つで、花をつける低木や、花樹が植えられており、美しいだけでなく、ちょっとした目隠しになっているのだろうなと思った。
陛下と貴妃様の
僕の
正直言うと、平気だと思った足首は、数歩歩き出すとまた痛み始めた。でも、それでも普段と違う空気が吸いたくて、僕は少し足を引きずりながら庭へと踏み入れ──そこで、先客がいることに気がついた。
……歌が聞こえた。
透明だけれど、少し
女性が庭にいる。
「…………」
そうできなかったのは、そこにいた人が、まるで仙女のようだったからだ。
早く流れる雲が、ちらちらと月を隠した。
けれど再び顔を出す月はくっきり明るく、地上に光の影を残している。
『彼女』は、その中にいた。
美しい人だ。色彩を欠いたその姿ですら、僕の持つ言葉を尽くしても表せないような美しさを前に、僕は立ちすくんだ。
それは美しいだけではなく、
最初は仙女なのかと思った。
けれど夜にひっそりと
目の前の幽玄な人を見て、
「あ……」
痛い足では踏ん張りきれず、ぐらりと上体を崩した僕は、咄嗟にすぐ横の木にしがみつく。だけど僕の呟きで、幽鬼はハッとしたように僕を振り返った。
「あ……あの……」
「触れるな」
「え……」
幽鬼が僕を
「触れるな、駄目じゃと申しておる」
「ふ、触れる?」
彼女に何を言われているのか理解出来なかった。
だって彼女と僕の間には距離があって、たとえ手を伸ばしたところで、彼女に触れることも出来ないのに。
すると彼女はしびれを切らしたように、
咄嗟に絶牙が間に入ろうとしたが、それを幽鬼は振り払った。
「だから手じゃ! 木から手を離せ! 毒蟻がいる!」
そう幽鬼が叫ぶのとほとんど同時に動いたのは絶牙だった。
彼はすぐさま彼女の言葉を理解して、手をついた木から、僕を無理やり引き
はっとした。そこには確かに無数の蟻がいた。
「ひっ」
絶牙は大慌てで、
「ほ、本当に毒があるんですか?」
逃げるように木から距離を取ると、彼女は僕の腕に手を伸ばし、「もう居ぬかえ?」と言った。
その手はどこかおぼつかず、僕はそこで初めて、彼女があまり目がよく見えていないことに気がついた。
「こんな小さくとも、
「ひぇ……」
怖いことを、女性は何故だか微笑みながら言う。全然笑えないことなのに。だけどお陰で
この上毒蟻に嚙まれたなんて事になれば、僕はすっかり心が折れていただろうから。
「それは大変な事になるところでした……ありがとうございます。でもよく気がつかれましたね」
そんな……不自由な視界なのに。
「臭いじゃ。蟻共は酸っぱい匂いがするゆえ」
「臭い……? 蟻のですか?」
臭い? そんなに匂うのだろうか?
思わず蟻に顔を近づけそうになり、「離れよ!」と再び𠮟られてしまった。
「小さなものと侮ってはならぬ──それにしてもそなた、いったい──」
フンフンとまたにおいを
「ドゥドゥ?」
その時、肩布を手にした女官がやってきて、
幽鬼のような女性が振り返る。
女官は慌ててこちらに駆けてきたので、僕達もそそくさと中庭から逃げ出した。
僕の足下があまりにおぼつかなさすぎて、結局絶牙は僕を抱き上げ、部屋まで連れて行ってしまった。これ以上寄り道をされたくなかったのかもしれない。
「今の方……後宮に関わる方でしょうか? いくら庭とはいえ、ここは一般の方が入る事は許されていないはずですよね?」
その質問に、絶牙はまた困った顔をするだけで、何も教えて
でも桜雪達に聞こうにも、逆に中庭に行ったことを
美しいけれど、まるで人間ではない……そんな幽玄の人。
そういえば日中、女官達がこの華清宮に、もう一人妃が来ていると、そんな風に言っていた気がする。
着ていた衣は、確かに上質だったと思う。だから良家の子女か、陛下のご
「………妃」
独りごちてなんとなく、一瞬残念な気がしたのは、彼女があまりに幽玄で、俗世と
月が誰の物でもないように。
ドゥドゥというのが彼女の名前なのだろうか?
人に会ってしまって、大変な事になるかもしれないと焦ったけれど、彼女は僕の顔を見ていないようだったし、僕が高華妃だという事は気がつかれていないだろう……。
そんなことを考えているうち、いつの間にか僕は眠りに落ちていた。
ここ数日、慣れない寝台と緊張の連続で、毎日朝方までなかなか眠れないでいたのに。散歩の効果か、奇妙な出会いのお陰か、その日僕は久しぶりに深い眠りに包まれ、朝まで目覚めなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます