第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑧


 食事の後、気がつけば泣き寝入りしていたみたいだ。

 眠ったお陰で胸焼けの方は幾分落ち着いた気がする──その分空腹が勝っていたけれど。

 こればっかりはしかたない。明日あしたまた朝、どろっとした薬湯と、おかゆと、お茶で胃袋を満たそう……冷えて脂っこい料理よりはマシだ。

 でも今は泣いたせいか、喉が渇いてしまった。

 寝台からもそもそい出して、お茶が残っていないか寝台横の卓に手を伸ばすと、その気配に気がついたように、すぐにぜつが部屋に来て、お茶の用意をしてくれる。

 茶器にお湯を注ぐと、甘いはすの香りがぱっと空気の中に咲いた。

 その香りに、心のとげがぽとり、ぽとりと落ちていく気がした。

「ありがとうございます……」

 お茶をすすりながらお礼を言うと、彼はうなずいただけで、僕の寝衣の準備に取りかかっていた。眠る時は翠麗に戻り、翠麗として目覚めなければならないのだ。

 でも、出来る事なら寝る前に汗だけでも流したい。

「あの……先に温泉に浸かってきても良いでしょうか?」

 おずおずとお願いして、そもそもこんな事すら自分の意思で、自分だけで済ませられない事にゆううつを覚えた。

 実家にも使用人はいたけれど、こんな身の丈六尺五寸もある、立派なたいの青年にかしずかれるのは、まだ緊張する。頼もしくもあるが。

 彼は勿論ですという風に頷いて、快諾してくれたようだったけれど、「一人で行って来たいんですけど……」という僕の要望には困った顔で首を横に振った。

「ですよね……」

 まあ、わかってはいたんですが……。

 そうして温泉で、一日分の疲れと心のコリをほぐし、帰り道の廊下で満月と半月の間の美しい張弦月を見上げると、無性に心がザワザワした。

 このまま部屋に戻って寝てしまうのが、なんだか嫌だったのだ。

「……少しだけ散歩をしたら駄目ですか? この時間なら誰にも会わないでしょうし、温まったお陰か、足の痛みも和らぎましたし」

「…………」

 僕のお願いは、本当はあまり許されないことなのはわかっていた。

 多分おうせつだったら、絶対に駄目だと言っただろう。でも絶牙はちょっと悩みうなるようにして、そして湯殿から少し離れた、中庭の方を指差した。

 陛下は特によう貴妃様の目につくところ、視界に入るところ全てを美しく作り上げただけでなく、園庭を挟むことで人払いをしているのだろう。

 中庭もその一つで、花をつける低木や、花樹が植えられており、美しいだけでなく、ちょっとした目隠しになっているのだろうなと思った。

 陛下と貴妃様のおうのためのそれは、人目を避けたい僕にも丁度良い。

 僕のわがままを聞いて、彼は僕を中庭まで連れて行ってくれた。

 正直言うと、平気だと思った足首は、数歩歩き出すとまた痛み始めた。でも、それでも普段と違う空気が吸いたくて、僕は少し足を引きずりながら庭へと踏み入れ──そこで、先客がいることに気がついた。

 ……歌が聞こえた。

 透明だけれど、少しかすれた優しい歌声だ。

 女性が庭にいる。

 とつに隠れなければ、と思った。

「…………」

 そうできなかったのは、そこにいた人が、まるで仙女のようだったからだ。

 早く流れる雲が、ちらちらと月を隠した。

 けれど再び顔を出す月はくっきり明るく、地上に光の影を残している。

『彼女』は、その中にいた。

 美しい人だ。色彩を欠いたその姿ですら、僕の持つ言葉を尽くしても表せないような美しさを前に、僕は立ちすくんだ。

 それは美しいだけではなく、あやしさだとか、冷たさをはらんでいたからだ。

 最初は仙女なのかと思った。

 けれど夜にひっそりとたたずむ姿は幽鬼だ──ああそうだ、きっとそうだ。隠世の存在だ。うつしの乙女が、こんなに淡く美しいはずがない。


 目の前の幽玄な人を見て、ぼうぜんとしていたのは僕だけではなかったようで、不意に我に返ったように近侍の絶牙が僕の腕を引いた。

「あ……」

 痛い足では踏ん張りきれず、ぐらりと上体を崩した僕は、咄嗟にすぐ横の木にしがみつく。だけど僕の呟きで、幽鬼はハッとしたように僕を振り返った。

「あ……あの……」

「触れるな」

「え……」

 幽鬼が僕をにらんで言った。ひどく怖い顔だ。

「触れるな、駄目じゃと申しておる」

「ふ、触れる?」

 彼女に何を言われているのか理解出来なかった。

 だって彼女と僕の間には距離があって、たとえ手を伸ばしたところで、彼女に触れることも出来ないのに。

 すると彼女はしびれを切らしたように、あるいは怒りに耐えかねたように、白くて太いまゆをより険しくひそめ、ずんずんとこちらに歩いてくる。

 咄嗟に絶牙が間に入ろうとしたが、それを幽鬼は振り払った。

「だから手じゃ! 木から手を離せ! 毒蟻がいる!」

 そう幽鬼が叫ぶのとほとんど同時に動いたのは絶牙だった。

 彼はすぐさま彼女の言葉を理解して、手をついた木から、僕を無理やり引きがした。

 はっとした。そこには確かに無数の蟻がいた。

「ひっ」

 絶牙は大慌てで、おびえた僕の衣や肌を手でぱたぱたと払い、毒蟻を落とす。

「ほ、本当に毒があるんですか?」

 逃げるように木から距離を取ると、彼女は僕の腕に手を伸ばし、「もう居ぬかえ?」と言った。

 その手はどこかおぼつかず、僕はそこで初めて、彼女があまり目がよく見えていないことに気がついた。

「こんな小さくとも、まれるとれるし、痛みで一晩二晩は寝られなくなるし、一度に幾度も嚙まれれば、痛いではすまずに死ぬ事だってある」

「ひぇ……」

 怖いことを、女性は何故だか微笑みながら言う。全然笑えないことなのに。だけどお陰でひどい目に遭わずにすんだみたいだ。

 この上毒蟻に嚙まれたなんて事になれば、僕はすっかり心が折れていただろうから。

「それは大変な事になるところでした……ありがとうございます。でもよく気がつかれましたね」

 そんな……不自由な視界なのに。

「臭いじゃ。蟻共は酸っぱい匂いがするゆえ」

「臭い……? 蟻のですか?」

 臭い? そんなに匂うのだろうか?

 思わず蟻に顔を近づけそうになり、「離れよ!」と再び𠮟られてしまった。

「小さなものと侮ってはならぬ──それにしてもそなた、いったい──」

 フンフンとまたにおいをぐように鼻を鳴らして、女性が言いかけた、が。


「ドゥドゥ?」


 その時、肩布を手にした女官がやってきて、げんそうにこちらに声を掛けてきた。

 幽鬼のような女性が振り返る。

 女官は慌ててこちらに駆けてきたので、僕達もそそくさと中庭から逃げ出した。

 僕の足下があまりにおぼつかなさすぎて、結局絶牙は僕を抱き上げ、部屋まで連れて行ってしまった。これ以上寄り道をされたくなかったのかもしれない。

「今の方……後宮に関わる方でしょうか? いくら庭とはいえ、ここは一般の方が入る事は許されていないはずですよね?」

 その質問に、絶牙はまた困った顔をするだけで、何も教えてもらえなかった。

 でも桜雪達に聞こうにも、逆に中庭に行ったことをとがめられてしまうだろう。

 美しいけれど、まるで人間ではない……そんな幽玄の人。

 そういえば日中、女官達がこの華清宮に、もう一人妃が来ていると、そんな風に言っていた気がする。

 着ていた衣は、確かに上質だったと思う。だから良家の子女か、陛下のごえんせき、公主……或いは誰かの妃か。

「………妃」

 独りごちてなんとなく、一瞬残念な気がしたのは、彼女があまりに幽玄で、俗世とつながっている人であって欲しくないような、そんな気がしたからだ。

 月が誰の物でもないように。

 ドゥドゥというのが彼女の名前なのだろうか?

 人に会ってしまって、大変な事になるかもしれないと焦ったけれど、彼女は僕の顔を見ていないようだったし、僕が高華妃だという事は気がつかれていないだろう……。

 そんなことを考えているうち、いつの間にか僕は眠りに落ちていた。

 ここ数日、慣れない寝台と緊張の連続で、毎日朝方までなかなか眠れないでいたのに。散歩の効果か、奇妙な出会いのお陰か、その日僕は久しぶりに深い眠りに包まれ、朝まで目覚めなかった。

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