第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑦

 今、日中は毎日おかゆばかりだ。

 僕の苦手な香りのする、精の付くお粥だけ。

 表向きは翠麗が病身だからで、それでなくとも彼女は日頃随分食が細く、また素食を好んでいたからという理由だ。

 でも一番は、僕がまだ後宮の貴人のお作法で、食事を出来ない事が原因だった。

 だから夜の食事は、そのまま食事の作法の練習になるのだが。

「…………」

 冷えて固くべとついたべいも、羊の肉とはらわたに豆の粉をまぶしていためた格食も、丁子油をかけたなまぬるい魚のなますも、なんというか……全てが冷えていて、どうにも食が進まないのだ。

 飛霜殿から夕刻以降の人払いをした結果、料理人すら置けないから仕方がないのだとは思う。

 とはいえ訓練でへとへとの身体に、この冷えて固まった油物や、臭いのある肉や魚は、正直つらい。

 わがままなのかもしれないが、僕は家を出てから、おう皇子の所で働かせてもらっていた。

 科挙に受かったちゆうまんや、高りき様の跡取り候補と噂されていた僕が就いている役職だから、必然的にその待遇はそう悪い物ではなかった。

 うたげの席にも呼ばれたし、よく儀王様と共に食事をする事だってあったのだ。

 儀王様は慎ましい方で、ぜいたくを好む方ではなかったし、食事もものすごく豪華だったわけではないけれど。

 でも食事は温かい物、汁物、冷たいものと品数も豊富だった。

 毎晩今日のように冷えていて、固くボソボソしていて、生臭く、全体的に油が固まり、茶色っぽい料理だけなのは、正直辛い。

 でも他に食べる物はないのだ。日中のあの苦手なお粥以外には。

 お茶菓子は色々あるけれど、病気で寝込んでいる手前、そうむしゃむしゃと欲しがるわけにはいかないだろう。

 それに食の作法の練習をしなければ、夜の生活は変えて貰えないし、昼間の粥生活も脱せないだろう──だから食べるしかないのだ。

 でもわかっていても、はしの上げ下げから、わんの触れ方に至るまで、こと細かに注意されながらいただく食事は、もうそれだけで食欲がえてくる。

 結局毎晩半分ものどを通らないまま下げてもらい、それでも胸の辺りで、脂が固まっているような、そんな不快感がしばらく続く。

 それでいてずっと空腹感がくすぶっていた。

 今すぐここを抜け出して、炉から出したばかりのパリパリで、あつあつの胡餅にかぶりつけたら、どんなに幸せだろう。

 汁たっぷりの湯餅水餃子でもいい。貴人の食べる物ではありません、と怒られるかもしれないが、にくあんたっぷりなつるつるした湯餅を、肉汁ごとあふあふと頰張りたい。

「お顔です」

 そんな事を考えながら、鱠を口に運んでいると、桜雪の注意が飛んだ。

「はい?」

「高華妃様は、何を召し上がる時も、微笑んでいらっしゃいました」

「それは……そもそも翠麗はあまり好き嫌いのない人でしたから」

「……そうでしょうか?」

「え?」

「お言葉ですが……高華妃様はいつでも、努力されていらっしゃいましたよ」

 僕の反論に、桜雪が少しだけまゆひそめた。

「でも翠麗は、僕よりも何だって上手うまくこなす人でしたよね。桜雪だってここまで大変じゃなかったですよね……すみません、不出来な弟子で。どうせ僕は努力の色が見えないでしょうね」

 思わず言葉に毒が混じる。

 けれど嫌いな物だけ食べさせられ、日中は部屋に閉じ込められ、夜はずっと𠮟られ続ける毎日に、僕はすっかりへきえきとしていたのだ。

 それに努力を惜しんでいるつもりもない。好きでここに来たわけでもない。

 なのにそんな風に、どれだけ翠麗が優れていたか……なんて話を聞きたくはなかった。

「そういう意味ではございません。ただ……翠麗様もきちんと努力されておいでだったという事を、お伝えしたかっただけです。小翠麗様の努力が足りないと、そういう事を言いたいわけではございません」

 思わず怒気を含んだ僕の声に驚いてか、桜雪が慌ててそう言い訳した。

「そうですよ、小翠麗様は毎日頑張ってらっしゃるじゃありませんか」

 茴香もわざとらしく僕を褒めてくれたけれど、別に僕は、おだてて欲しいわけじゃなかった。ただ怒られたり、否定されたりすることに心がしぼんでしまっただけだ。

 もちろん、苦労するんだろうなとは思っていたし、僕だってやるしかないのだと覚悟をしてここに来たつもりだった。

 けれど翠麗の服を着て、華清宮で彼女の帰りを待つだけなんだろうなと、そんな風に甘く考えていたのも確かだったし、麗人がこんなに苦労をしているという事も気がついていなかった。

 自分の考えが甘かったといえばそれまでかもしれないけれど、だからといって他の選択肢があっただろうか? 断って、一族郎党が陛下に罰せられれば良かったのか?

 近侍の彼女達だって無罪では済まされないはずなのに。

 それなのに……どうしてこんな風に、たくさん否定されなきゃいけないんだろう。

 翠麗は、とにかく全てに恵まれた人だった。

 僕と同じ顔をしていても、正妻の娘で、父上が誰より信頼を寄せた子供で、高力士様も翠麗には幼い頃から一目置いていた。

 身のこなしも美しく、誰より巧みに舞い、歌い、政治や歴史についての学があり、父の客人達と、この大唐のあり方について議論する──本来女であるならば、いかに文官の娘とはいえ、そんな会話に加わることなど、許されはしなかったが。

 けれど彼女が後宮に上がる事は、暗黙の了解だったのだろう。

 げんそう陛下はそうめいで自分の意見を持った強い女性を好む。ようえんなだけの女性が長いちようを得たためしがない。

 学があり、同じ位芸術を好み、中でも陛下は曲を作るのを得意としていたから、陛下の曲で美しく舞える事も大事だった。

 つまり翠麗は、陛下が好まれるよう、その通りに育てられた人だったのだと思う。

 それを困難に感じているようには見えなかった。彼女がなんでも易々とこなしているように見えたからだ。

 そうして後宮に上がり、そればかりか数回の寵ですぐに華妃に冊された。

 陛下には所謂いわゆる正妻・皇后が不在だったため、いずれは翠麗がその座に納まるだろうとみな噂したのだ──陛下が息子の妻だったようぎよくかんに出会うまで。

 以来、全てのちようあいは、陛下の妃になった楊貴妃様にだけ注がれているけれど、翠麗の華妃の座は安泰だろうし、再び陛下の寵が翠麗に戻ってこないとも限らない。

 そんな何もかもを手にした人──彼女を僕はずっと大好きだった。

 翠麗は僕の誇りだったし、自慢のあねだったから、小翠麗と呼ばれるのはうれしかったし、彼女と比べられることすら嫌じゃなかったのに。

「……いったい、どこに行っちゃったんですか、翠麗」

 寝台で布団をかぶり、つぶやく。

 あんなにも大好きだった姐の事を、僕は初めて憎いと思った。

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