第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑥


「こちらはまだすいれい様のへんりんもございませんよ! さあもう一度! お立ちになられませ!」

「ううう……」

 屋敷の廊下に、おうせつの鋭い言葉が響いた。

 年齢は三十よりもうすこしいったくらいだろうか? 桜雪は質素ながらも綺麗に編まれた黒髪が美しく、濃く細いまゆが印象的で凜とした女性だ。

 尚儀首席女官というのは、公主や皇子をしつけのためであればむちで打つことすら許される立場だ。かつてその地位を得ていたというのがにじみ出るような、まとう空気すら少し怖いような、圧迫感というか、威圧感がある。

よろしいですか? このままではお散歩にもお連れできませんよ! さあ立って!」

「だってこんなにかかとも高いのに? 鈴も鳴らさずに歩けなんて、不可能ですよ!!」

「皆さんそうされています。お立ちなさい!」

『翠麗』がずっと部屋から出られないのは、病身……を演じているというだけでなく、単純に僕は翠麗のような所作で動き回ることが出来ないからだ。

 僕は毎日、ぽっくりとして踵のとても高い木靴を履かされ、両腕と頭に鈴を、更には足首に綿を弱く紡いだ糸に鈴を通し、しゃなりしゃなりと歩く練習をさせられた。足を広げすぎると、綿はすぐに切れて鈴が床に落ちてしまう。

 そもそも肩や頭、腕を大きく揺らして鈴を鳴らすのもだめなのだ。聞こえて良いのはきぬれのみ。

「背中を丸めてはいけません、しっかり胸を張って! 下を見ない!」

「ひえっ」

 不幸中の幸いは、彼女が鞭を使って指導をする人ではなかった事か。

 でも充分厳しいし、普段のもの静かな雰囲気に反して、ものすごく怖い。

「わっ」

 あんまり怖すぎて、身体が余計ぎくしゃくとしてしまうし、そもそもそんな歩き方、今までした事がないし、この靴すごい怖い。

 結局またころりと転びそうになって、横に控えてくれているぜつが支えてくれた。

「す、すみません……」

 謝ると、彼は少し苦笑いを返してきた。きっと僕の事を、さぞ物覚えが悪いと思っているだろう。

「でも……いきなりこんなの無理ですよ」

「いきなりではありません、練習を始めてもう三日です」

「そうですけど、この靴、本当に怖いんです」

「そうですか。でも翠麗様は、これでも上手に歩かれますよ?」

 そんな事言われたって、翠麗はなんでも器用にこなす人だった。彼女ならこんな靴だって、そりゃ上手に履き慣らしてしまうだろうけれど……。

「うう……」

 別に僕だって、上手に歩けるようになりたくないわけではないけれど、上手うまくいかないんだから仕方ないじゃないか。

「良いですか、小翠麗様は歩く時、身体のあちこちを揺らしていらっしゃいます。それはすなわち、体中に気を配られていないからです」

 足に集中すると鈴が鳴り、胸を張れと𠮟られ、胸を張れば鈴が鳴り、転んでしまう。

つまさき、足首、ももに腰、背中に肩、頭の先から指先まで、全てに気を配って歩くのです」

「だから、そんなの無理ですって!」

「無理ではございません、さあもう一度!」

 一生懸命やっていないわけじゃないのに、出来ないことが悔しいし、恥ずかしい。

「…………」

 ぎゅっと奥歯をみしめると、それでも悔し涙がこみ上げてきそうになったので、僕はこらえるように上を向いた。

 その拍子にまたしゃらんと頭の鈴が鳴り、桜雪が僕をギロリとにらむ。

 慌ててあごを引こうとして、また体勢を崩した。

「うわわっ」

 しかも慌てて絶牙が支えようとしてくれたけれど、その手をつかみそこね、足首がグキッとなってしまって、僕は無様に廊下にひっくり返った。

「あいたたたた……」

 起き上がろうとすると、足首に痛みが走る。

「絶牙」

 桜雪に命じられ、絶牙は僕の足首を診た。もちろん仮病なんかじゃなく、本当に痛い。

 それでも絶牙が少し曲げたりして、傷の具合を調べてくれたところ、どうやら少しひねっただけで、そこまで大変な怪我ではなさそうだ。

 良かったような、悪かったような……。

「困りましたわね。では、歩く練習はここまでにしましょうか。足がよくなるまで、お辞儀の練習です」

「お……お辞儀ですか」

「ええ。女人拝からくうしゆとんしゆけいしゆ──どれも美しく出来るようになられませんと」

 にっこり笑って、桜雪がお辞儀した。

 せめて今日はもう解放してくれても良いのに。僕はとぼとぼと足を引きずりながら、部屋へと向かった。

 女人拝は、立ったまま女性がする簡易的で一般的なお辞儀。空首、頓首、稽首は、公式な場でのはいだ。

「宜しいですか? そくてん公が、女性は頭の飾りが多く、高貴になればなるほど、跪拝が無様になると申されました。小翠麗様が仰ったように頭が重いですし、髪も乱れます。飾りも落ちて、公式の場であればあるほど、確かに跪拝が難しくなるのです」

「それは確かに」

 朝のような髪型で跪いてこうべを垂れたら、本当に首が取れてしまう。

「ですから、武則夫公は女の拝は立ったまま膝を軽く折り、頭を下げる『女人拝』を公式な物に変えられました。とはいえ、陛下との謁見や、本当にごくごく公式な場では、そういう訳にはいかないのです」

「ですよね」

 それはまぁ……そうだとはわかっていたけれど、でもあの頭でか……。

「はい。こう華妃様もやはり、跪く稽首や頓首などの礼拝をなされます。従って、着飾った姿でも、美しい跪拝を覚えていただかなくてはなりません」

「はぁ……」

 ……どうせそうだと思いましたけどね。

「お辞儀する時は、簡素な頭にする……という訳にもいかないんですか?」

「公式な席ですよ? むしろ普段より盛らないと」

 横で聞いていたういが言った。

「えええ……」

「当たり前ですよ。とはいえ、崩れないようにしっかりと結って、飾りも最大限とれないようにしますから」

「はぁ……」

 まあ、ここで嫌だと言ったところで始まらないのはわかっている。できないではなく、やらなければならないことも。

 それでもさすがに、髪を結って練習するのは無理だと思ったのか、かもじも外した頭で跪拝の練習が始まった。

 僕は空首といえば腕を頭の位置で揃えていた。こちらは男性として一般的な空首の形だが、女性は胸よりもやや上、顎の辺りで手を揃え、甲に額をそっと乗せるように拝するそうだ。

 カチッとした機敏な腕の動きではなく、女性特有のなめらかな動き。

 なめらかな指の動き、衣のそでさばき、ひじの角度、微妙な高さ、頭を下げる速度まで──まるで隙間なく木箱に収めるように、全てがきっちりと決められているようだ。

 高さや角度はすぐに覚えた。でも問題はもっと抽象的な「なめらかに」とか「美しく」とか「しとやかに」という駄目出しだ。

 時々桜雪や茴香がお手本を見せてくれたけれど、正直自分がどうして「もう一度」と言われてしまうのかがわからない。

 そんなに動きが硬いのだろうか……と、己の指をじっと見てみると、確かに翠麗の方がしなやかでほっそりとした指だったような気もする。

 かといって、言われたように意識してみると、そうではないと注意される。

「動きはむちのように、しなやかに、なめらかにですわ。なよなよしない!」

「なよなよ……と嫋やかの違いがよくわかりません」

「そのようなふにゃふにゃと、嫋やかさは別なのです。貴方あなたにはしんがありません、芯が」

「芯……ですか」

「そうです、さあもう一度!」

 でも、『もう一度』と簡単に言うけれど、もう二の腕はパンパンで疲れているし、何度も頭を上げ下げしているうちに、段々気分が悪くなってきた。

「すみません、なんだか頭がくらくらと……」

 空腹感と相まって、本当にまいがするし、胸がムカムカしてきた。

「そうですか……仕方がありません。拝の練習は終わりにしましょう」

 桜雪が短く息を吐いて言った。

 拝の練習は、だ。わかっている。この後は飲食の作法の練習になる。

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