第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑥
三
「こちらはまだ
「ううう……」
屋敷の廊下に、
年齢は三十よりもうすこしいったくらいだろうか? 桜雪は質素ながらも綺麗に編まれた黒髪が美しく、濃く細い
尚儀首席女官というのは、公主や皇子を
「
「だってこんなに
「皆さんそうされています。お立ちなさい!」
『翠麗』がずっと部屋から出られないのは、病身……を演じているというだけでなく、単純に僕は翠麗のような所作で動き回ることが出来ないからだ。
僕は毎日、ぽっくりとして踵のとても高い木靴を履かされ、両腕と頭に鈴を、更には足首に綿を弱く紡いだ糸に鈴を通し、しゃなりしゃなりと歩く練習をさせられた。足を広げすぎると、綿はすぐに切れて鈴が床に落ちてしまう。
そもそも肩や頭、腕を大きく揺らして鈴を鳴らすのもだめなのだ。聞こえて良いのは
「背中を丸めてはいけません、しっかり胸を張って! 下を見ない!」
「ひえっ」
不幸中の幸いは、彼女が鞭を使って指導をする人ではなかった事か。
でも充分厳しいし、普段のもの静かな雰囲気に反して、ものすごく怖い。
「わっ」
あんまり怖すぎて、身体が余計ぎくしゃくとしてしまうし、そもそもそんな歩き方、今までした事がないし、この靴すごい怖い。
結局またころりと転びそうになって、横に控えてくれている
「す、すみません……」
謝ると、彼は少し苦笑いを返してきた。きっと僕の事を、さぞ物覚えが悪いと思っているだろう。
「でも……いきなりこんなの無理ですよ」
「いきなりではありません、練習を始めてもう三日です」
「そうですけど、この靴、本当に怖いんです」
「そうですか。でも翠麗様は、これでも上手に歩かれますよ?」
そんな事言われたって、翠麗はなんでも器用にこなす人だった。彼女ならこんな靴だって、そりゃ上手に履き慣らしてしまうだろうけれど……。
「うう……」
別に僕だって、上手に歩けるようになりたくないわけではないけれど、
「良いですか、小翠麗様は歩く時、身体のあちこちを揺らしていらっしゃいます。それは
足に集中すると鈴が鳴り、胸を張れと𠮟られ、胸を張れば鈴が鳴り、転んでしまう。
「
「だから、そんなの無理ですって!」
「無理ではございません、さあもう一度!」
一生懸命やっていないわけじゃないのに、出来ないことが悔しいし、恥ずかしい。
「…………」
ぎゅっと奥歯を
その拍子にまたしゃらんと頭の鈴が鳴り、桜雪が僕をギロリと
慌てて
「うわわっ」
しかも慌てて絶牙が支えようとしてくれたけれど、その手を
「あいたたたた……」
起き上がろうとすると、足首に痛みが走る。
「絶牙」
桜雪に命じられ、絶牙は僕の足首を診た。
それでも絶牙が少し曲げたりして、傷の具合を調べてくれたところ、どうやら少しひねっただけで、そこまで大変な怪我ではなさそうだ。
良かったような、悪かったような……。
「困りましたわね。では、歩く練習はここまでにしましょうか。足がよくなるまで、お辞儀の練習です」
「お……お辞儀ですか」
「ええ。女人拝から
にっこり笑って、桜雪がお辞儀した。
せめて今日はもう解放してくれても良いのに。僕はとぼとぼと足を引きずりながら、部屋へと向かった。
女人拝は、立ったまま女性がする簡易的で一般的なお辞儀。空首、頓首、稽首は、公式な場での
「宜しいですか?
「それは確かに」
朝のような髪型で跪いて
「ですから、武則夫公は女の拝は立ったまま膝を軽く折り、頭を下げる『女人拝』を公式な物に変えられました。とはいえ、陛下との謁見や、本当にごくごく公式な場では、そういう訳にはいかないのです」
「ですよね」
それはまぁ……そうだとはわかっていたけれど、でもあの頭でか……。
「はい。
「はぁ……」
……どうせそうだと思いましたけどね。
「お辞儀する時は、簡素な頭にする……という訳にもいかないんですか?」
「公式な席ですよ? むしろ普段より盛らないと」
横で聞いていた
「えええ……」
「当たり前ですよ。とはいえ、崩れないようにしっかりと結って、飾りも最大限とれないようにしますから」
「はぁ……」
まあ、ここで嫌だと言ったところで始まらないのはわかっている。できないではなく、やらなければならないことも。
それでもさすがに、髪を結って練習するのは無理だと思ったのか、
僕は空首といえば腕を頭の位置で揃えていた。こちらは男性として一般的な空首の形だが、女性は胸よりもやや上、顎の辺りで手を揃え、甲に額をそっと乗せるように拝するそうだ。
カチッとした機敏な腕の動きではなく、女性特有のなめらかな動き。
なめらかな指の動き、衣の
高さや角度はすぐに覚えた。でも問題はもっと抽象的な「なめらかに」とか「美しく」とか「
時々桜雪や茴香がお手本を見せてくれたけれど、正直自分がどうして「もう一度」と言われてしまうのかがわからない。
そんなに動きが硬いのだろうか……と、己の指をじっと見てみると、確かに翠麗の方がしなやかでほっそりとした指だったような気もする。
かといって、言われたように意識してみると、そうではないと注意される。
「動きは
「なよなよ……と嫋やかの違いがよくわかりません」
「そのようなふにゃふにゃと、嫋やかさは別なのです。
「芯……ですか」
「そうです、さあもう一度!」
でも、『もう一度』と簡単に言うけれど、もう二の腕はパンパンで疲れているし、何度も頭を上げ下げしているうちに、段々気分が悪くなってきた。
「すみません、なんだか頭がくらくらと……」
空腹感と相まって、本当に
「そうですか……仕方がありません。拝の練習は終わりにしましょう」
桜雪が短く息を吐いて言った。
拝の練習は、だ。わかっている。この後は飲食の作法の練習になる。
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