第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑤

 それでも茴香と桜雪がやってきて、僕の着替えをさせてくれると、気持ちが落ち着いてくるのが不思議だ。

 柔らかくてすべすべした生地の感触、かれる香や、施されていく化粧――少しずつ、『僕』が翠麗になっていく様を、自分の身体で感じていく度、心まで何かに覆われてゆく気がする。

 肌を覆い隠した後は、他の女官も入って来て、髪を結ってくれたり、見せる特別な相手どころか、部屋から出る予定もないのに、それでもきらびやかに飾るのだ。

 茴香は本当にまだ若い――二十を少し過ぎたくらいの女性で、柔らかそうなたい に、ぽってりとした唇と、頰のそばかすが愛らしい人だ。

 腰は低いが、太めのまゆは彼女の隠れた意志を表しているのだろう。

 普段はおっとりとして、内気そうな人なのに、着替えのこととなると途端に表情が変わる。

「ああ、今日もなんときめ細かな肌でしょう! 紅をいれるのがもつたいないぐらい! そうですわ、じゃあ今日はいっそ控えめに……額にでんだけにしましょう。だったら衣はこちらの色にして――」

 興奮気味に茴香が言った。声は弾んでいるけれど、目は全然笑っていない。

 そうして、テキパキと筆や手を動かしながらも、「まあ!」「これはこれは」「なんということですか!」……と、ずっと一人で何かしらつぶやいている。

 そんな彼女に最初こそ驚いたけれど、どうやらこれが『いつも通り』らしいのだ。

 衣を着替え終わり、髪や装飾を施す頃には、残りの尚服女官・巧鈴達二人も呼ばれる。

 そうして彼女が満足げに筆を下ろし、彼女に柔らかな生地の金色の室内履きを履かせて貰もらうと、僕はもうすっかり、どこからどうみても、『高華妃』になっているのだった。

「今日もたいへんおれいですわ」

 茴香がとても満足げに言った。

かもじかんざしが重いわ…… 屈かがんだら首が取れてしまいそう」

「とれませんよ、嫌ですわ、高華妃様」

 けらけらと明るく朗らかな緑榮が笑ったけれど、僕は半分以上本気だった。

 複雑に高く結われた髪の、あちこちにじゃらじゃらした金だの玉だのの簪が挿さっているのだ。

 翠麗ほど髪も長くないから仕方ないとはいえ、さらに髢がたっぷりと編み込まれているので、頭の上に鉛を載せているような気になるし、ちょっと傾けるだけで、首がグラグラしてしまう。

「お気に召されないのであれば、すぐにお直しいたします」

 そう真剣な表情で言ったのは巧鈴で、感情表現豊かな緑榮とは対照的に、いつも静かで真面目そうな人だ。

 そこまで誰かの手を煩わせる事でもないと思うし、もう大丈夫だと二人を下がらせる。

「でも日中は、ほとんどこの寝台の上で過ごすのに……」

 思わず小さく呟いてしまうと、桜雪が首を横に振った。

「寝台の上であっても、華妃様は美しく装われるものです」

「そうですか……」

 正直ここまでする必要はないのでは……と思うけれど、装っている方が確かに見た目も翠麗に見える。これも慣れるしかないのだろう。

 仕方なく溜息を飲み込むと、若い尚食女官の杏々が扉をたたいた。

 見ると、おぜんには薬湯とおかゆ、そしてお茶と小皿にきようにんべいがあった。小麦粉を油で練り、杏仁や果物をくるんで焼いたお菓子だ。

「そろそろお支度が終わられた頃だと思ったんです。華妃様、昨日すごいお顔でお薬を飲まれていらっしゃったから、お口直しもあった方がいいかと思って」

 確かに昨日、僕は死にそうな顔で薬を飲んだ。何度か飲めば慣れると思ったけれど、日増しにつらくなっていくから。

「秋明はどうしました?」

 そんな気の利く杏々に、桜雪が問うた。

「お茶を用意しにいったら、ちょうどお薬を持っている秋明さんと会ったので、一緒に預かってきたんです」

 そうはきはきと言って、杏々はまず僕に薬湯を、お盆ごと差し出してきてくれた。

 けれど僕がわんを手に取るより先に、絶牙が碗に手を伸ばした。

「え?」

 驚く僕が何か言うより先に、絶牙は薬を空いた茶碗に少しだけ移し、それをあおる。

 杏々も戸惑いを顔に浮かべていた。

「杏々、華妃様にお出しするものは、全て毒見をしなければいけないの」

 桜雪が言った。

「毒見ですか? 秋明さんがされたんじゃないかと思うんですけど……」

 そこまで言いかけて、「薬ですよ?」と杏々は少しだけ眉をひそめたものの、すぐに表情を戻して「わかりました」と答えた。

「……じゃあ、お茶とお菓子も確認されますか?」

「はい……気を悪くしないでね。そういう決まりなの。事前に聞いていない物は、高華妃様には差しあげちゃいけないのよ」

 茴香が言い訳するように言い添える。

「わかってます。貴妃様もお毒見の方がいらっしゃるし、私、元々華妃様の部屋付きじゃありませんから」

 警戒されて当然です、と杏々は言うと、気にしていないと笑って見せた。

 絶牙が両方毒見して、問題ないと言うようにうなずく。

 こういう時、本当に毒が入っていたらどうしよう? ととても不安になる。

 毒でも入っていて、飲まないで済んだら良かったと思うほど、飲みたくないのがこの薬湯だ。でも飲まないわけにはいかないのだ。

「う……うぷっ」

 覚悟を決めて薬を呷って――えずきかけてから、慌てて杏々の淹い れてくれたお茶を、流し込むように飲んで口直しする。

 さらにすかさず桜雪が、杏仁餅を差し出してくれた。

 それを口に放りこんで、やっとその甘さで僕は生き返った。

「ああ……ありがとう杏々。あなたのお陰でこの薬を乗り越えられそうよ」

 しみじみとお礼を言うと、杏々は驚いたように僕を見た。

「なあに?」

「いえ……ただ貴妃様はそんな風におつしやってくださらないので、恐れ多いです」

 確かに高貴な人であれば、そう易々と女官に礼など言わないものか。

 とはいえ、翠麗は家でも使用人達に親切にしていたし、昔から『善意への感謝に身分はない』と言っていたのを覚えている。

 それでも杏々は恐縮そうに部屋を出て行ったので、僕は間違ってしまったのかと不安になって桜雪を見た。だけど彼女は首を横に振って、『大丈夫です』と視線で答えてくれたのでほっとする。

 でもこうやって翠麗を思い出して、いな部分で彼女を装う事は出来るのに、一番肝心な部分はこんなにもわからない。

 どうして翠麗が消えてしまったのかは。

 幸い周囲はまだ入れ替わりに気がついていないみたいだし、僕も、そして桜雪達も気がつかれないよう努力はしているけれど、こんな生活がいったいいつまで続けられるんだろうか?

 先の見えない不安に、急に寒気のようなものを感じて、僕は温かいお茶でそれを無理やり流し込んだ。

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