第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う④

「高華妃様!」

 秋明が驚いて叫んだ。

 それでも幸い、寝衣の裾すそは汚したものの、指以外の皮膚にはかからなかった。布団にかかった分も、僕の肌まで染みこむ前に、とつに絶牙がはねのけてくれたのだった。

「大変! 急いでお着替えを!」

 慌てた秋明が僕の身体から寝衣をぎ取ろうとして、僕も焦った。

「だ、大丈夫です! ほとんどかかってませんから!」

「ですが!」

 薄い着物一枚を引っ張り合う形で、僕達は互いに悲鳴のように叫んだ。

 彼女の心配はわかるが、ここで衣を取られたら、一発で入れ替わりがバレてしまう。

 僕は指の痛みよりも、そちらの方に必死だった。

 けれどそんな僕達の攻防を遮る様に、絶牙が秋明の腕を摑つかんだ。

「あ……」

「…………」

 言葉の話せない絶牙が、秋明を、そして何か言いたげに僕を見る。

 無言の訴え――あるいは威圧。そこではっとして、僕は少し冷静になった。

「だ……大丈夫です――着替えは絶牙に手伝わせます。秋明、申し訳ないけれど、お前はもう一度薬を貰もらいに行ってくれるかしら」

 話し出すと、幸いすぐに必要な言葉が出た。

「ですが……」

 秋明はそれでも何か言いたそうだったので、仕方なく僕は、なよなよと自分で自分の体を抱いてみせた。

「何度も言っているはずです。この痣は、これ以上誰にも見られたくはないの」

「は……はい、失礼しました! すぐにお薬をいただいて参ります!」

 慌てて秋明が部屋から出て行った。

 痕のことは少々強引だと思ったものの、そこは美しさで陛下を魅了する後宮の華妃の言う事だ。女官達は意外とすんなり信じてくれている。

 大病を患い数日前まで明日をも知れない命だった華妃が悲しそうな顔で「身体のあちこちに痣ができてしまった」――と言えば、女官達はもう無理強いなど出来るはずがないのだ。

「…………」

 秋明がぱたぱたと出て行くと、絶牙はあん の息をらす僕の手を取り、指先と、他に火傷やけどをしていないか素早く調べた後、着替えを持ってきてくれた。

「火傷はしていないと思うけれど……」

 そう言った僕に絶牙はうなずき、そして衣を着替えるのを手伝ってくれる。

 普段は自分一人で着替えていたのだから、こんな風に人の手を借りるのは慣れない。出来れば一人でやらせて欲しいけれど、そういう訳にもいかないらしい。

 絶牙は少年時代にかんがんになったという。立派なたいをしていて、宦官と言われなければ普通の武人と違わない。

 実際にあざはないし、僕は女性ではなく男だが、宦官服の上からでも鍛えられた身体がわかる絶牙に、この薄っぺらい身体を見られることは、正直恥ずかしい。

 お湯を使ったりして、着替え前に身体をれいにしながら、なんとなく間が持てずに言った。

「宦官になると、身体が鍛えにくくなると聞いた事があります。肉が柔いまま堅くなりにくいって。それでも強そうなのは、やっぱりものすごく鍛えられているからですか?」

 思わず問うてしまうと、彼は少し困ったように眉を寄せ、それでも頷いて見せてから、扉の方を指差した。

「あ……」

 女官達に聞かれてしまうと言いたいのだ。そこまで聞かれて困る話の内容ではなかったものの、翠麗にしてはきっと違和感のある質問だっただろう。

「……わたくしも病がえたら、もっと運動がしたいわ。今は、まるであしのように弱いんですもの。貴方あなたが何か指導してくれたら嬉しいのだけれど」

 改めてそう言い直すと、彼はゆっくりと頷いてから、そしてもう一度僕の指先を確認するように見た。

 直接茶碗の薬がかかってしまった所は、やはり少し赤くなっているようで、ヒリヒリする。

 彼は僕の手を、そっと置いて、とんとん、と手の甲を叩いてから、部屋の外に行くと動作で示して見せた。

 どうやら冷やすものを取りにいってくれようとしているらしい。

「え? ああ、大丈夫ですよ。冷やすほどではないと思うのだけれど……」

 けれど彼は首を横に振り、そのまま部屋の外に消えていく。そして――。

「……うん?」


(……、…………)

(…………、………、……)


 一人になると、風の音に混じって、隣の部屋の会話が聞こえてくる事に気がついた。

 窓を開け放しているせいだろう。貴人あてびとの寝室は、窓が大きいものなのだ。

 確かに絶牙の言う通り、会話には気を付けなければ……そう思い直しながら、寝台のすぐ横の窓にほおづえをつき、聞き耳を立てる。

 かさかさと花の揺れる音、甘い香りに混じって、女官達の声が届いてくる。

(高華妃様、どうして私達ではなく、宦官に手伝わせるのかしら。なんだか変よね……

怪しいわ、顔の良い宦官に任せるだなんて)

(高華妃様もお若いのに、ずっと陛下のお召しがないのだから。顔のいい宦官をはべらせるぐらいいいじゃないの)

(だけど……陛下のお耳に入ったら大変よ)

(ここでなら平気じゃない? それより陛下は、貴妃様の事で頭がいっぱいでしょ。私達が黙ってればいいだけよ)

(そうね……もしかしたら、華清宮に来たのも、その為だったりして?)

 う……。

 茴香に任せるのが恥ずかしくて、結局いつも絶牙に頼んでしまっていたけれど、考えてみたら翠麗は女性なのだ。

 宦官だから……と思っていたけれど、確かにおかしな噂の原因にはなりえるのか。

「はぁ……」

 苦労するとわかってきたつもりだったけれど、それでもやっぱりためいきが洩れてしまった。

 本当は他に女官を連れて来たくはなかった。

 でも陛下がこんな風に気配りしてくださった事には感謝すべきだし、もう翠麗にちようを与えはしないまでも、翠麗の病を案じ、また快復することを望んでくださっているのだ。

 とはいえ、そのせいで華清宮での生活が、格段に難易度を増した事には違いないのだ。

 絶牙も、新しい薬湯もなかなか来ないので、そのまま女官達の雑談に耳を傾ける。

 悪趣味だけど、万が一入れ替わりの事がばれていたら? と気が気じゃない。

 実際彼女達は、高華妃の事を――僕の話をしているみたいで、胸がザワザワする。


(そもそも、いったいなんのご病気なのかしら?)

(それよ! やっぱりあの脅迫状の噂、本当なんじゃない? 華妃様はご病気ではなく、毒を盛られたっていう話)

(毒のせいで、身体に痣が出来たりすることもあるのかしら?)

(だけど、知ってる? 今ね、この華清宮には華妃様だけでなく、どく様も滞在されてるっていうのよ。もうそれって怪しいじゃない!)

(いやだ、怖いわ。こんな所まで付いてきて、私達も大丈夫かしら……)


「……毒妃様?」

 聞き慣れない名前だと思った。

 けれど、よほどの理由がなければ、後宮の妃が療養とはいえここに来る事は難しいと聞いたし、そもそも怪しいってなんだろう?

 毒の噂はまあ、正直都合良く判断してくれるなら、そう思われるのもそれはそれでいいかもしれない。でも脅迫状ってなんだろう……。

 そんな事を考えていると、絶牙が戻ってきた。

 どうやらわざわざ井戸まで行って、冷たい水をおけんできてくれたらしい。

 指をけて冷やしながら、さっきの『毒妃』という人の事を聞いてみようかとも思ったけれど、彼は口がきけないのだ。

 日常生活のだいたいは身振り手振りで伝わるし、彼は文字の読み書きもできるので、いざとなれば筆談という手はある。

 でも今ここでそれをやるのは……なんて考えているうちに、手の痛みが引いてきたように思う。

「……ありがとうございます。そうだ、そろそろ着替えた方が良いと思うので、桜雪と茴香に、支度の準備をと伝えてくれますか?」

「…………」

 そうお願いすると、彼はまたけんに少ししわを刻んだ。

「ああ」

 そうだった。女官達の噂話が聞こえたように、ここでの会話が筒抜けの可能性があるのだった。

 いけない、いけない、と思い直して頭を振る。ええと……。

「絶牙。そろそろ起きるから、支度をと茴香に伝えて」

 慌ててそう言い直すと、彼は恭しく頭を下げて、また部屋から出て行った。

「……はあ」

 僕の口から盛大に溜息が漏れた。

 こんな調子でやっていけるのだろうか? 正直毎日自信がしぼんでいくのを感じる。

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