第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う③


   二


 ……と、こう力士りきし様と馬車で密談(?)を交わしたのが一週間前。

 僕は今、長安の都より東郊にある温泉地・せいきゆうにあった。

 こうていの遊び相手だった神女が、腫れ物治しの為に湧かせたという伝説のあるふう光明こうめいなこの場所は、げんそう陛下のお気に入りの保養地で、彼は毎年冬の間ここで、よう様と過ごされるという。

 陛下のおひざもととあって人気も高く、いくつもの楼閣と、官吏や王侯達の邸第が並んでおり、温泉以外に馬球場などの遊興施設も沢山建っている。

 元々花の多い美しい場所だったが、陛下がさらに貴妃様の為に、沢山花を植えたというだけあって、目に映る全てが美しい場所だ。

 その中でも、陛下が冬場に楊貴妃様と過ごすのに使われるそう殿でん

 僕は毎日、その豪華な寝室で朝を迎えるようになった。

 理由は僕――いや、華妃の高翠麗すいれいは、『急な病に倒れて数日生死をまよい、やっと意識を取り戻したものの、しばらくは保養地での静養が必要になった』からだ。

 それは勿論高力士様が考え出した筋書きだ。いくら外見が似ているとはいえ、後宮のことを何も知らない僕を、いきなり後宮に放りこむのはさすがに無謀であるし、もしかしたら静養中に翠麗本人が帰ってくるかもしれない。

 だから高力士様が陛下に静養を願いいれたところ、陛下は快く、今は自分の使っていない飛霜殿で、ゆっくり過ごすようお許しくださったのだった。

 二ヶ月間皇帝の温泉宮で静養なんて、こんな優雅な話はないけれど、実際はそんな甘い話ではない。

 翠麗のしつそうを知るのは、僕と高力士様を除いて、翠麗の近侍の三人だけだった。

 一人は翠麗が信頼を寄せるお付きの侍女、翠麗の部屋の筆頭女官のおうせつ

 今は翠麗に仕えているが、以前はしよう局の首席女官でもあった人だ。公主達の教育係を務めていたし、翠麗に後宮の作法やしきたりを仕込んだのも彼女だという。

 そしてもう一人はしようふく女官のうい

 元々ただの針子であった彼女の才能にれ込んで、翠麗が衣装係にと取り立てた人で、翠麗の服を僕用に縫い直してくれたり、僕を翠麗そっくりに変装させてくれたりする。

 最後の一人はかんがんぜつで、彼は武官の一族の末子であったが、父と兄が陛下のお怒りを買い、一族は彼以外を残し全て処刑されてしまった。

 ただ一人死は免れたものの、宦官としてしか生きる術すべを残されなかった彼は、少年の身に降りかかったあまりの苦しみから、その声を失ってしまったという。

 寡黙で忠実な彼を、高力士様が翠麗に仕える宦官であり、同時に護衛として、その傍を守らせていたという。

 高力士様は最初、その三人だけ連れて僕を華清宮に二ヶ月間行かせ、その間に貴婦人としての立ち振る舞いを身につけさせるつもりだった。

 けれどそれを否、と言ったのは陛下で、病身の高華妃が不自由することがないようにと、もう数人の女官に加え、華清宮での生活に困らないよう、貴妃様がいつも一緒に連れて行く女官を数人、お供につけてくれたのだった。

 正直ありがた迷惑な話だったが、陛下のお心遣いを無下にも出来ず、結果僕はここで非常にきゅうくつな生活を強いられることになってしまったのだった。

 僕の華清宮での生活はこうだ。

 朝目が覚めると、絶牙と桜雪か茴香かがやってきて、僕に朝の身支度を整えさせる。

 僕は病気で、身体にいくつかあざのようなものができてしまった事になっており、そのため肌はごく限られた女官にしか見せたくない――ので、肌をさらす段階では、他の女官の手は借りない。

 その後、しようしよく女官の二人――〈元々〉翠麗付きで薬の担当のしゆうめいと、本来は貴妃様付きの食事のはいぜん係の杏々あんあんがやってくる。

 朝食はおかゆと決まっている。それと薬湯を飲んだ後は、茴香と尚服女官である巧鈴こうりんりよくえいの二人がやってきて、更に衣装や化粧などを、より華美に飾ってくれる。

 それから後は特に予定はないのだが、僕はあくまで病人なので、一日中できるだけ寝ていなければならない。

 実際は動き回ったり、ヘタにしゃべったりしてボロが出てしまうのが怖いからだ。

 飛霜殿には生活を支えてくれる尚しよう寝しん女官が、さらにもう三人いる。

 僕の正体を知らない七人の女官に、入れ替わりを気づかれないよう、日が沈むまでは大人しく過ごすのだ。

 そして夜、高華妃は早くお休みになるからと、近侍の三人だけ残して他の女官達は用意された部屋のある、長湯に引き上げる。

 飛霜殿にいるのが四人だけになると、やっと自由か……と思いきや、今度は桜雪から後宮の妃としての、礼儀作法をみっちりと学ぶ時間がやってくる。

 それも中途半端ではなく、数年間後宮で暮らした翠麗が身につけた、最高級に優雅な身のこなしを。

 歩き方から、女性らしいお辞儀、ひざまずいての拝、飲食の作法、言葉遣い、笑い方から扇の使い方まで。

 その合間に待っているのは、茴香からの女性らしい衣装の選び方についての指導だ。

 翠麗はいつも自分で、今日はこの色をまとうとか、こういう風に着てみたいといった希望を、しっかりと口にする人だったという。

 故に僕も、女性の華やかな装いを学ばなければならない。

 それでもそれとなく茴香と桜雪が助け船を出してくれるお陰で、今の所は何とかなっているし、少なくとも言葉遣いはまだマシな方だ。

 高力士様も仰っていたように、僕は子供の頃、よく翠麗のマネをしていたからだ。

 顔だちが似ているだけでなく、僕達は声もなんとなく似ている。姿さえ隠れていれば、女官達は僕とねえさんの区別をつけられずに、まんまと僕らのいたずらじきになっていた。

 だから問題は、やはり麗人らしい立ち振る舞いだ。

 期限は二ヶ月――たった二ヶ月で、僕は周囲がだまされるほどかんぺきに、女性らしい動き方を身につけなければならない。

 それだけではなく、日中僕の正体を知らない女官達を、騙せなければならないのだ。

 日中だって絶対に、気を抜いてはいけない。

 だのに、朝が来て目を開ける度、一瞬自分が何処にいるのか混乱した。

 見覚えのない天井と、豪華な調度品。窓から吹き込む風と、身体を包む布団から、甘い花の香りがする。

「……ああ、そうだ」

 布団を目元まで引き上げ、その香りを吸い込んで、やっと思い出す。

 翠麗がいつも自分のかおりにしている香だ。そして今は僕が使っている、『高華妃』の月下美人の香。

「高華妃様、薬湯の時間にございます。お着替えの前でもよろしいですか?」

 その時、僕の目覚めた気配を逃さずに、女官の一人が扉をたたいた。

「あ……う、うん。そうね、入って良いわ」

 つい地声で返事をしかけて、こほん、とせきばらいを一つ。少し高い声で答えると、すぐに秋明と宦官の絶牙が、恭しくちやわんを掲げて入って来た。

 どうやら今朝は寝過ごしてしまったらしい。普段ならもう朝の支度が済んでいる時間なんだろう。

 秋明は女性の中でもほっそりと背が高く――つまり、僕よりも高く、けれどその細いまゆはいつも八の字になっていて、やたらと気を遣ってくれるという印象だ。

 いわゆるお薬係なので、普段健康が取り柄だった翠麗とは、あまり交流がないらしい。

その分やりとりは気が楽だけれど、とはいえ、運んで来てくれる薬湯は毎回うれしくない。

 大の苦手なの実から始まって、どうにも好きになれない薬湯は、実際は治療のためではなく滋養強壮という効果に加え、体内の陰の気を増やし、陽の気を抑えることで、男としての成長を止まらせる効果があるという。

 飲むのを止めれば、また育つので心配はないと言われたけれど……そもそも、そんなに長く僕は翠麗のフリをしなければならないのか? と不安がぬぐえない。

 とはいえ翠麗がいつ戻るのかもわからなければ、他に身代わりが見つかるかどうかもわからないのだから、当面は僕がここで踏みとどまらなければならないのだろう。

 仕方なく、僕は嫌々ながらも茶碗に手を伸ばした。

 朝起き抜けに、うすら甘い泥みたいなものを飲まなければならないのはつらいけれど。

 と、そうして茶碗を持ち上げたその時だ。

「あ」

 今日は薬が普段より茶碗にたっぷり注がれていたらしい。取ろうとわずかに傾けた拍子に、指にたぷんとかかってしまった。

「ぁ熱っ!! 」

 お湯よりは粘度のあるそれは、一瞬の時間差の後、適温というには攻撃的な熱さで、僕の指を包み込んだ。

 思わず手を引いた拍子に、さらに茶碗が倒れ、中身が盆を伝って寝台やら布団やらに飛び散ってしまった。

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