第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑲

 唐のたいそうせいみんが建てた温泉宮を、貴妃様とのおうの為に作り直したのが、この華清宮であって、陛下のお気に入りの場所とあれば、当然ながらここは人気の土地になる。

 周囲には沢山の楼閣の他、馬球を行うきゆうじよう等の娯楽施設も充実している。

 でも僕達は、さらにそれらを越えて、人の往来の少ないエリアに向かっていった。

 ドゥドゥさんの女官は、本当に心配そうだったけれど、茴香を診る人がいなくなるのも良くないと、覚悟を決めたように僕達を送り出した。

 少しおおだとも思ったけれど、冪〓を纏って歩き出したドゥドゥさんの足取りの重さに、僕も急に不安になった。

「あの……どうされました?」

「いいや……ただ、知らない匂いだと思っての。後宮とはまったく違う」

「ああ……そうですね、そうですよね」

 考えてみたら、彼女はあまり目が良くないのだ。全く見えない訳ではないにせよ、他の部分──例えば匂いや音を頼りにしているみたいだ。慣れないところは、それだけで恐ろしいだろう。

「すみません。うっかりしてました。道の悪い所は、絶牙に抱き上げて頂くことにしましょう」

 そしてそれ以外は、手をつなぐのはどうか? と彼女に左手を差し出すと、彼女は嫌がらずに僕の手を取った。

「すまぬ」

「いいえ」

 そうして彼女が希望するように、郊外のうまやに向かって歩き出した。

 正直に言えば、僕もこの時間に歩き回るのは少し不安だ。野の獣や夜盗が出てこなければ良い。

 せめて帯刀してくれば良かっただろうか……と思った。儀王宮では気まぐれに皇子がけいをつけてくれたけれど、いつも模造刀で、実際誰かを傷つけた事は一度もない。

 本当に僕に、それが出来るだろうか。

 でもせめて、隣にいるドゥドゥさんは守らなければと思う。彼女は僕の代わりに毒を飲んだも同じなのだから、その恩情には報いなければ。

「……具合は大丈夫ですか? 毒は?」

「今はもう大丈夫じゃ。われに毒は効かぬと申したはずよ」

「そうですが、心配になります」

 そう言うと、彼女はふ、とかすかに笑った気がした。

しよせん吾は毒見よ。妃の姿をしていても、それは少しもたがわぬ。吾は毒妃、毒より生まれ、毒で死ぬのがが一族の定めよ──故に、吾に毒の心配など必要ない」

「そうですが……」

「むしろ野心に近いそなたの方が、ずっと危険であろう? 偽華妃」

「それはそうですが……それより、その偽華妃はやめて頂けませんか?」

 万が一、誰かに聞かれると、あまり具合のよくない呼び名だ。

「そうか。ではなんと呼べば良い」

「本当の名は玉蘭です。幼い頃は小翠麗と呼ばれておりました」

「玉蘭か。蘭はこの世の数多あまたの花達の中では珍しく、なんの毒も持たぬ花じゃ──そなたに似合いだの」

「へえ……蘭に毒は無いんですか」

 それは知らなかった。花によっては、なんとなく毒々しいのが蘭なのに。

「吾は今まで通りドゥドゥで良い。『ドウドウ』じゃ。昔陛下が吾をそうお呼びになった。愛らしかろう?」

「愛……あ、ええと、はい」

 まぁ……他でもない陛下のおつけになった名前だし、本人がそう思っているなら、僕が何か言う事ではないか。

 不意にドゥドゥさんが深呼吸をひとつした。

「こんな風に、外に出たのは……初めてじゃ」

「え? 何年ぶり、という事ではなく?」

「吾は赤子のうちから召し上げられ、八歳になるまで公主達の乳母に育てられたがゆえ」

 だからずっと後宮の敷地内から出た事がない、と彼女は言った。

「ああ……じゃあ、だからその話し言葉なんですね」

「古臭いと思うておるか?」

「格式を感じます」

「物は言いようじゃな」

 あきれたように返されたが、気分を害した訳ではなさそうだ。

「そんなことは──あうっ」

 その時、つい話に夢中になって、足下のぬかるみに足を取られ、転びそうになった。

「ぬっ!?」

「~~~~~~!!」

 僕はドゥドゥさんの手を引いていたので、僕が転び掛けたせいで、ドゥドゥさんまで転び掛けてしまって、とつに僕達二人を、絶牙が支えてくれた。

「…………!」

『気を付けてください!!』と、彼が目ですごく訴えている。ご……ごめんなさい……。

「あ、あの……ここからは道が悪いので、むしろ絶牙にお任せした方がいいような……」

 もし何かあった時に、絶牙の両手がふさがっているのは危険だけれど、このまま僕が手を引くよりはずっといい。

 ドゥドゥさんも同じく思ったようで、素直に彼に横抱きにされた。

 なんなら僕も今ばかりは抱き上げて欲しいくらいだ。

「そ、それにしても、厩に何があるんです? ふんに毒でも含まれてるんですか?」

「馬糞に毒は聞かぬな。むしろ薬効があるという。だが馬糞には 蝶形花褶傘ワライタケがよく生える」

蝶形花褶傘ワライタケ? 毒キノコですか?」

「そうじゃ。呼吸をするのも忘れるほど楽しい幻覚が見られると言うが、そのまま呼吸出来なくなる可能性もある。試してはならぬよ」

「そんなの試しませんよ」

 そんな話をしながら、僕達はきゆうしやあかりを目指した。

 やがて厩舎の一つに着くと、馬丁が放牧を終えた馬たちの世話をしているところだった。

「ここ最近、馬が暴れたり、病気になったりした事がなかったか?」

 いささか唐突な質問に、馬丁も僕達も戸惑ったが、それでも高貴な身なりの女性から問われ、「うちはないですが……北のしんようもんの方でそんな話を聞いた覚えがあります」と答えてくれた。

「北側ですか……」

「ええ。あちらも馬小屋がいくつかあるから訪ねたら良いと思いますよ」

 まだ歩かなきゃいけないのか……。

 最近はすっかり病人同様の生活なので、正直もう息が上がっている。

 だけど隣で、ドゥドゥさんを抱いて歩いている絶牙は、汗一つかいていない。

 鍛え方が違うのはわかっているけれど、つらいというのが恥ずかしくて、僕は必死に歩いた。

 履き慣れない女性ものの靴が、足に食い込んでいたかったけれど。

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