第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う⑳

 そうして北側の厩舎を訪ねると、一軒目はやはり、困ったように「うちじゃないよ」と言われてしまった。

「うちの馬はみんな元気だよ。でも最近……そうだな、そういう噂を聞いたことはあるが……」

 年のいった馬丁は、自分の汚れた白髪頭をなで付けながら、奇妙な貴人にそう言うと意味ありげに会話を途切れさせた。

 つまり、これ以上聞きたいというなら、お金をよこせと言っているらしい。仕方なくいくらか手渡すと、彼はにんまりと笑って再び口を開いた。

「隣の厩舎で、馬が冬場に何匹か病気になった話を聞いた。あそこは厩舎の親父が亡くなって、まだ若い息子がほとんど一人で馬を見ているんだ──まあ、馬を病気にしちまうぐらいだから、きちんと世話できているか、怪しいもんだがね」

「あの調子じゃ、冬も飼い葉が足りなかっただろう。苦労してるだろうな」

 横で聞いていた他の馬丁が、薄笑いで言った。だからといって手を貸す義理はないのかもしれないけれど、なんとなく胸のすっきりしない話だ。

「なるほど……では、その厩舎の放牧地は知っておるか?」

「放牧地ですか?」

 馬丁は二人ともげんそうだったけれど、更に謝礼をはずむと、機嫌良く教えてくれた。ここから遠くない所のようだ。僕らはまた歩き出した。

「でも……放牧地に何の用が? この時間に放牧はしていないと思いますけど?」

「わかっておる。正確には、探しているのは放牧地沿いの花じゃな」

「花、ですか?」

 確かに華清宮は、貴妃様の為に陛下が沢山の花を植えたと聞いているけれど、元々花の多い地域と聞いたことがある。そんな話をしているうちに、僕達は話に聞いた放牧地にたどり着いた。

 馬が逃げないように、木で囲いはしてあるが、所々随分傷んでいて、確かにきちんと管理されていない印象だ。

 一応近くにあるという厩舎を訪ねてみたけれど、馬丁は不在らしい。

「まあいい、勝手に探せば良かろう」

 ドゥドゥさんはそう言うと、絶牙に「下ろせ」と指示した。

 あまり道が良くないので心配だったものの、彼女は空気の香りをぐようにして、そろそろと歩き始めた。

「な……何をしているんですか? あの……ドゥドゥさん?」

「ええい! 邪魔をするな! 話せば呼気が混じるではないか! 二人ともできるだけ息もするな!」

「そんな無茶な……」

「…………」

 思わず絶牙と顔を見合わせてしまった。けれど僕達二人が他に出来る事はない。

 仕方ないので二人で口元を押さえ、できるだけじっとして彼女の邪魔をしないようにした。

 そっとべきをかきわけ、鼻先で何か見えないものを追うドゥドゥさんの姿は、なんだかとても神秘的だ。

 もし誰かがこんな姿を見たならば、『触れる物全てを毒に変えてしまう』だなんて、奇妙な噂をたててもおかしくない。

 彼女には不思議とじゆじゆつ的な気配を感じる。

 月の下、白い影が揺れる。天に向かって舞うように──美しいものはおそろしいものだ。

 その時、ふいに少し強い風が吹いて、彼女を覆う薄絹と、僕の前髪が揺れた。

 その一筋の風になんの啓示を受けたのか、唐突にドゥドゥさんが歩みを早めたので、僕達は慌ててその後を追いかけた。

「……ドゥドゥさん?」

 やがて彼女は、何かを見つけたように足を止めた。

 それは小さな白い花を沢山つけた、低木の茂みだった。

「……れいですね」

 ちょうどくぼみのような一角に、群生するその花は、所々茶色く枯れて、花期のピークは終わっているようだった。

 とはいえそれでも、まだまだ白い花は房のように枝垂れ咲いて、透き通った芳香が周囲を満たしていた。

 かすかにまつに似た香りは、甘いだけではない。微かに翠麗を思い出させた。でもそれよりも──そうだ、だいじゆに少し似た香りだ。心を静めてくれる。

 ドゥドゥさんもその香りに誘われたのか、彼女はその花たちの茂みに手を突っ込み──。

「ちょ……気を付けてください、蛇でもでたら──」

「蛇毒は確かに厄介だな。ものによっては、われも数日寝込むかもしれない、ふふふ」

 だから『ふふふ』じゃない。

 思わず呆れてしまう僕に、彼女は薄く笑う──と、やがて彼女は「あった」と更に口元に笑みを刻んだ。

「え?」

「多分これだ……二人とも、少し下がっていよ」

 そう指示され、言われるまま絶牙と数歩後ずさる。

「それは?」

つぼじゃ」

「それは見たらわかりますが……」

 問題はどうしてそんな壺が……と思いながら、僕は何気なく周りに咲く白い花に手を伸ばし──。

「触れるでない」

「え?」

「花に触ってはならぬ。ええい、不用意に何にでも触れるでないわ」

「ど、毒蟻ですか!?」

 とつに手を離した。また、ドゥドゥさんに𠮟られてしまった。

「蟻ではない。この木、花は愛らしいが、全草に毒がある」

 一瞬また蟻がいるのかと思ったけれど、どうやら今度はこの木、そのものが毒らしい。

 心配したように、絶牙が僕の腕をそっとつかんだ──いや、毒があるから触るなって言われたら、もうさすがに触らないですが……。

 ドゥドゥさんはやれやれというようにためいきを一つついてから、また壺の方に向き直った。

「…………」

 下がっているように言われたものの、ついつい気になってじりじり近づいてしまうと、ドゥドゥさんはまた溜息をついた。

「わかった……ちょっとこっちに来よ小翠麗」

「なんですか?」

「この壺──ふたをしたこの壺に、少しだけ触れて見よ」

 言われるまま手を伸ばす。

「……これは?」

 壺の冷たくなめらかな手触りの向こう、何かがざわざわうごめくのを感じ、僕は咄嗟に手を離した。

「な、なんなんですか!」

「おそらく蜂の巣じゃな」

「え!?」

 ぎょっとして後ずさると、僕をかばうように絶牙が間に入った。

「そこまで警戒しなくても、ミツバチは夜は活動しない──が、確かに離れていた方が良いかもしれぬ。緊急事態ゆえ」

 それは確かに緊急事態だった──ミツバチたちの。

 ドゥドゥは懐から小さな壺を取り出すと、そのまま無造作に蜂の巣とおぼしき壺を開き、中に小さな壺ごと手を突っ込んだ。

「ちょ、ちょっとドゥドゥさん!?」

「大丈夫。少しはちみつをいただくだけだ」

「なっ!」

 せつ、ぶわっと蜂たちが巣から飛び出した。

 蜂に囲まれてもドゥドゥさんは平気そうな顔をしている。でも、そんなはずない。ミツバチは確かに大人しいけれど、人を刺さないわけではない。

「ドゥドゥさん!」

 とはいえ僕も近づくに近づけなくて、慌てて距離を取りながら彼女を呼んだ。

 咄嗟に絶牙を見ると、彼は『わかりました』というようにうなずいて、上着を脱いだ。

 勇敢な彼は、そうして上着を振り回すようにして蜂を振り払いながら、ドゥドゥさんに近づくと、軽々と彼女を抱き上げ、走り出した。

 それからしばらく、蜂を完全に振り切るまで二人で走った。足の痛みなんか忘れるくらい、焦っていたし怖かった。

 そうして充分離れた所で、やっと僕達は足を止めた。

「だ、だいじょうぶ、ですか……ふたりとも」

 必死に走ったせいで、すっかり息が上がってしまった。なんだかまいまでする。

 結局そのまま座り込んでしまって、ぜいぜいと肩で息をしていると、絶牙は己の無事を答える代わりに、自分ではなく僕が蜂に刺されていないか調べるように、僕の衣をあちこちめくって調べはじめた。

「ミツバチは一度人間を刺すと、哀れにも死んでしまう。だからそうそう刺してはこないのだが……やはり巣を暴かれると、こんなにも荒ぶるのだな」

 まるで他人ひとごとのようにドゥドゥさんがつぶやいた。

「そんなの当たり前ですよ! っていうか、刺されたんですか!?」

「数カ所じゃ。案ずるな、元々たいした毒ではない。われには全然──」

「だからってダメですよ!」

 平気だと言いかけたドゥドゥさんの言葉を、思わず遮る様に叫んでしまった。

 恐怖の興奮や、彼女のその自分自身へのとんちやくさに、僕はすっかりたかぶって、怒ってしまっていたのだ。

「な、なんじゃ、大きな声で……」

「そういう問題じゃないんですよ! 毒だけじゃなく、刺されたら痛いでしょう!? ほら! のどの所に血が出てるじゃありませんか!」

「蜂くらい騒ぐほどではなかろう。ねこみつかれるのと変わらぬよ。回りくどい方法を省いただけではないか」

 おおな、とドゥドゥさんが顔をしかめる。

「こんなの、違いますよ……」

「何が違うと──」

「これは違います。これはいい方法じゃない! 確かに僕を狙った毒と、その犯人の事は知りたい。でも……だからといって貴女あなたが血を流すのは、それは……それは全く正しい方法じゃないですよ!」

 確かにそもそもは、僕が──翠麗が誰かに命を狙われていることで、毒を盛られたのは僕だった。僕は今『翠麗』だから、守られるというのはわかっている。

 でもみんな『翠麗』を守っているのだとわかっていても、僕のせいで茴香は毒に冒され、そして今、ドゥドゥさんは蜂に刺された。

 誰かを守る為に、時には自分を差し出すのは、それは美しいことかもしれないし、高貴な人は、半ばそれが当たり前なのもわかる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る