第一集 玉蘭、華清宮にて毒妃に出逢う②

「誰かにさらわれて、無理やり書かされたのでは?」

「私も考えた。だがおそらくは自分の意志だ。赤い花が添えられていた。小翠麗と呼ばれたお前なら、その意味がわかるだろう?」

「それは……」

 それはいたずら好きの翠麗が好んだ『花言葉』――つまりは暗号だ。白い花ならば『いいえ』『噓』、そして赤い花は『はい』『本当』の意味。

 であれば、これは本当に翠麗が自分の意志で書き、僕達に残したものなのか……。

「だったら……いったい何故?」

 文を見下ろし、僕は絞り出した。

「わからぬ。祭りの朝に見かけたときは、いつもと変わらないあの子だったのだ」

 高力士様も消沈した表情で言った。

 祭りとは三月三日の上巳節じようしせつの祭りのことだ。

 誰しもが心待ちにしたうららかな春、長安ちようあんの東南、曲江池きよつこうちで行われる。

 古くは御祓みそぎとしての水浴びが、六朝りくちよう時代に『曲水の宴』となって、この唐代まで伝わったというが、後宮の女達もぞろぞろと曲江池に向かうだけでなく、女官達も年に一度、家族と会う事を許される。つまり後宮の人の出入りの多い日なのだ。

 翠麗は幼いうちから高力士様にその美しさや才覚をいだされ、陛下の妃になるようにと育てられた。

 確かに今は、陛下のお召しがない状況だと聞くけれど……だからといって高家にあった頃よりも裕福に、穏やかに暮らせているはずだ。

 少なくとも、僕の送った文の返事には、毎日書を楽しみ、歌い、踊り、小犬をからかって楽しく暮らしていると書かれていたのに。

「本当に、何故……?」

「何故かは不明だ。だが問題はここからだ、玉蘭」

「ここから?」

「ああそうだ。後宮の、しかも華妃ともあろう者が後宮から逃げ出すなど、到底許される話ではない」

「そ、それは……」

 確かにそうだ。華妃が後宮から逃げ出すなんて事は大罪だ。

 後宮はけっして、陛下が女性と戯れる為だけの場所ではなく、本来は正統な陛下の御子みこを妃に宿すための場所であり、そこで仕えるのが女官と男を失った宦官だけであるのも、女達が自由に後宮の外には出られないのも、全ては陛下以外の子が生まれることを防ぐため、そして後宮の外に血がこぼれてしまわない為なのだ。

 国の未来のためにある、その厳重な規則は、たとえ高力士様とて変えられない。

「あの子の後見人は私だ。翠麗を後宮に上がらせ、陛下に献上したのは私であり、私の後ろ盾があるからこそ、陛下はあの子を華妃に封じてくださったのだ」

 陛下は父と同じく、一人の女性を大切にする方だという。当時、最愛の恵妃けいひ様を亡くしたばかりだった陛下は、翠麗をすぐに気に入ったと聞いている。

 でもそれは勿論もちろん、高力士様の後見があったからなのは間違いないだろう。

「私の失脚を望む者は多い。あの子の逃亡を許す者はいないだろう。そしてその罪は、そのまま高家が背負うことになる」

「姐上……」

 つまりは大罪だ。これが明るみに出れば、翠麗だけでなく、僕や、高一族そのものが罰せられることになるだろう。

 どうして……それがわからぬ人ではない筈なのに。

「だがとにかくあの子は、必ず戻ると記している。私は翠麗が噓をつくとは思わない」

「それはそうです。姐上は必ず約束を守られる方です」

「だから……玉蘭。お前に頼みがあるのだ」

「はい。翠麗を捜して、連れ戻せば良いのですね?」

 勿論どこにだって捜しに行こう。たとえ大食アラビア大秦ローマまでだって――けれど高力士様は、首を横に振った。

「え?」

「いいや。捜索は勿論するが、お前にしか務められぬ役割があるのだ」

「僕に?」

「ああそうだ。あの子は必ず戻ってくる。だからそれまでの間、お前があの子の身代わりになって欲しいのだ」

「……は?」

 一瞬、何を言われているのかわからなかった。

「翠麗が不在の間、そなたが後宮で高華妃になるのだ、玉蘭」

「僕が身代わりって、僕がですか? 僕が華妃になれと!?」

「ああそうだ。小翠麗」

「そ、そ、そんな! 正気ですか!?」

 思わず声が上擦る。高力士様が険しい表情で僕を見た。

「正気だとも。そなた達二人は本当によく似ている。今では顔立ちだけでなく、背格好もそっくりだ。何よりお前は翠麗の事を誰より良く知っている。弁も立つそなたならば短い間であれば、あの子の代わりを務められよう」

「そんな……」

「幼い頃、よくそうやって入れ替わって、家の者をからかっていたではないか」

「そんなの、うんと子供の頃じゃないですか! 叔父おじ上様のお気持ちはわかりますが、無理な物は無理です! 不可能ですよ!」

「いいや、わかっていない。やらなければ私も高家も、みな破滅するのだ」

「そうですが、そんな……」

「陛下は今、ようのみを寵愛ちようあいしている。嫉妬しつと深い彼女は、陛下が他の妃と親しげに口を利こうものなら、それだけで機嫌を損ねてしまう、気性の荒い女性だ。故にここ数年、他の妃は一切召されてはいない。ただの一人もだ。だからそなたは華妃のフリをして、あの子の帰りを待ってくれれば良いだけだ」

「だからって……」

 おつしやりたいことはわかる。だけど、本当にそれ以外方法はないのだろうか? もし身代わりがバレてしまったら、僕も高力士様もその時点で終わりだろう。

「その代わりという訳ではないが、身代わりの役目を無事こなせた暁には――そなたを正式に引き取れないか、そなたの父に掛け合ってみるつもりだ」

「う……」

「そして私の息子として、科挙を受けなさい。任子(※特権階級による世襲制度)でお役目に就ける事も出来るが、周囲にとやかく言われるのは嫌だろう? だがとにかく今は翠麗の事だ。そしてそなたの献身には、私も報いよう……どうだ?」

「それは…… もちろんうれしいですが……」

 父にとって、妻はただ一人。僕の母を愛さなかったわけではないけれど、彼はそれでも翠麗の母親以外を妻に迎えたくなかった。

 故に僕は庶子のままだ。父は僕を嫌っている訳ではないけれど、だからといって上の息子二人を溺愛できあいしている以上、彼らより僕を優遇する事はない。

 別に名を揚げたいという野心がある訳ではないけれど、今は良くても父が亡くなった後、あの兄の下で高家が安泰とは思えないのである。

 だからこの申し出が、嬉しくない訳がない。

 でもそもそも翠麗が消えてしまった今、そちらをなんとかしない事には、高家に未来はないのだ。

 それに、僕が翠麗のフリをして、しっかり華妃の役目を全うするという事は、一族を守るという事だけでなく、再び戻ってきた彼女の居場所を守れるという事でもある。

 翠麗は僕にとってあねであり、母親の代わりに大切に愛して育ててくださった人だ。

 粗暴な兄達から僕を守り、父ともく行くように、常に気を配って守ってくださった人なのだ。

「……わかりました。命をかけて務めさせていただきます」

 床板に付くほどこうべを深く垂れて、僕は答えた。

 とはいえ、胸の中には不安しかなかった。いったい翠麗は何を考えて、どこにいるのだろうか?

 あの賢くて優しい人が、どうしてこんな大変な事をしでかしたのだろうか。

 姐の身を心配しながらも、それでも僕は少しだけ翠麗に、心の中で恨み言を吐いた。

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